はじめに
今回からは、戦国武将のたちの性格の分析を試みてみます。
第一回の人物は、二年前の大河ドラマ、「麒麟‥‥」の主役であった明智光秀です。
彼は、京での信長の宿であった本能寺を急襲し、主君である信長を討つといった「謀反」を企てた人物です。その動機については、未だ、「謎」が多いとされていますが、彼の性格についての分析を通して、その「謎」にも挑んでみたいと思います。
性格傾向の項目
1)自らの役割や立場に対しては「従順」
2)温和な人柄
3)怖がり
4)自律神経系の異常による発作
5)思いがけない、大胆な行動をとる
では、一つずつ説明していきます。
各項目の解説
1)自らの役割や立場に対しては「従順」
光秀は、自らに与えられた「役割」や、自らが置かれた「立場」というものがあると、それには、極めて「従順」であり、まわりの期待に、一生懸命、応えようとするような人だったと考えています。事実、信長の配下になってからは、信長の指示には極めて「従順」で、ほとんど休むことなく、働き続けています。たとえば、丹波一国の攻略を任されながら、その上、信長の命により、あちこちの戦線に駆り出され、参戦しています。また、彼は「武人」でありながら、人材不足の織田政権の中にあっては、さまざまな制度改革や外交にも取り組むなど、「官僚」としての役割をも果たしていたとされています。その彼の働きぶりを信長も高く評価していたようです。
また、信長が戦場にある時に一人酒宴を楽しむようなことはできない、と語ったといったエピソードがありますが、その光秀からは、いかなる時も、「信長に付き従う」といった、自らの立場を忘れてはいない姿がうかがわれます。
さらに、ある資料では、光秀を秀吉と比較して、秀吉の「豪放磊落」に対して、光秀を「謹厳実直」の人と形容しています。
2)温和な人柄
彼の残した書状からうかがい知ることのできる光秀は、支配下の国衆や部下に対して、決して「強圧的」、「高圧的」な態度はとらず、書状の中身は「厚礼」であり、相手を気遣ったり、相手に寄り添ったりといった、「優しさ」を感じさせるような人物であった、とされています。
ちなみに、この光秀と対照的なのは信長であり、「(彼は)非常に性急であり」、「(時に)激昂する」と、宣教師のルイス・フロイスは述べています。
3)怖がり
信長への謀反の企てについて、光秀の側近の人たちに打ち明けたのは、出陣の前日であったとされています。また、部隊に対しては、本能寺を攻める直前に信長討伐を命じています。このように、企てが外に漏れないようにとの、かなり注意深い態度がうかがえます。これは彼の「慎重」な性格からというよりは、信長のことをひどく「恐れていた」ことからくるものではないでしょうか。万一、打ち漏らした時の信長が、彼は「心底怖かった」のではと考えています。
このため、彼の謀反の企てを、毛利や長曾我部などの反信長陣営は前もって知らされることはなかったし、光秀の下で働いていた武将(与力)も前もって光秀に味方するよう、打診は受けていなかったことになります。それが、謀反後、秀吉の「大返し」を許し、また、光秀に味方をする武将を結集できないまま、山崎の戦いでは、兵の数において勝った秀吉軍に敗れるという結果をもたらしたのではないでしょうか。
4)自律神経系の異常による発作
彼の性格から派生するものとして、自律神経系の異常による発作という「症状」を取り上げてみました。
天正4年(1576)5月、石山本願寺攻めの陣中で、光秀は病に倒れます。どんな病だったのか、詳しい記録はないのですが、7月に友人の吉田兼見が坂本で光秀に会った時には、病は「平癒」したらしく、10月には、京都で職務に復帰しています。
はたして、この病は何であったのか?
単なる「過労」であれば、しばらく休養をとれば回復するはずなので、わざわざ陣を離れてまで、病の治療や療養をする必要はないと考えられます。一方、脳や内臓などの重い病気であれば、二か月位で平癒するはずもないでしょう。だから、倒れた時は、重篤に見えても、自律神経系の異常なら、回復に左程の時間を要することはないと考えられます。
1)で述べたように、彼は与えられた役割を従順に果たそうとする傾向があります。その光秀に信長は矢継ぎ早に命令を出し、光秀はその期待に応えようとするといったサイクルが生まれても不思議はないと考えられます。結果、光秀は激務により過労状態となっただけでなく、さまざまな納得いかないこともやらされたり、まわりへ気遣いしたりしたことでの、精神的なストレスも加わり、自律神経系の異常による発作を起こしたのではないのかと考えています。彼には、秀吉のように不満を「行動」で現わすといったようなことができず、その時点では、「病」といった形でストレスを表現したのではないかと思われます。
5)思いがけない、大胆な行動をとる
すでに述べたように、光秀は「従順で、温和な人」といった傾向をもつ人物です。でも、彼の性格の中には、ある時点で、突如、まわりがびっくりするような、「大胆な行動」をとる可能性があると考えています。
すでに述べたように、光秀は主君である信長の命に従順に従い、信長の評価を得るために、懸命な努力を続けてきました。だが、その結果、病に倒れてしまう訳です。その後も、信長の命により光秀は激務を強いられ、また、味方の離反などの難題に直面させられます。それが肉体的にも、精神的にも彼を疲弊させ、それなのに、その彼の働きが必ずしも評価されていないことへの光秀の不満や先行きの不安が募る中で、少しずつ、彼に信長に対する「叛意」が生まれ、それが増大していったとしても不思議ではないと考えられます。それまで「従順」であったことの反動としての、信長に対する激しい怒りなのでしょう。でも、光秀にとっては信長は「怖ろしい存在」であり、不用意に行動に移す訳にはいかないので、「密かに」反逆の機会を狙っていた可能性があると考えます。
もちろん、それだけでなく、彼には信長にとって代わり、天下を取るという「野心」もあったはずです。彼には、これまでの自らの実績から、軍事的でも、政治的でも、天下を仕切るだけの実力があるといった「自負」があったとしても不思議ではないと考えられます。
以上のような彼の内面や「時に、大胆」といった性格は、「従順で、温和な人」といった彼の外見からはうかがい知れないので、光秀の謀反は、まわりの人たちの眼には「青天の霹靂」と映ったのかもしれません。
◇戦国武将のシリーズの続きの投稿記事は、「性格」から見た織田信長-信長の成功と失敗の理由(わけ)-です。
【参考資料】
福島克彦「明智光秀-織田政権の司令塔」、中央公論新社、2020.
高柳光寿「人物叢書 明智光秀」、吉川光文堂、1980.
ルイス・フロイス「回想の織田信長」、中央公論社、1977.
志村宗生「性格と精神疾患」、金剛出版、2015.
志村宗生「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」、東京図書出版、2023
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