はじめに
信長が尾張一国の平定をほぼ達成できた頃、尾張に攻め込んできた今川義元を彼は逆に打ち取り、その後、美濃攻略を開始します。それを成し遂げた後、「天下布武」を掲げて、上洛を果たし、戦国大名や宗教勢力の抵抗や、味方の離反などの、さまざまな困難を乗り越え、畿内とその周辺の分国の支配に成功を収めます。でも、最後は、部下である明智光秀の謀反により、彼の野望は終わりを告げることになるのですが、彼の性格についての分析を通して、彼の成功と失敗の理由にも迫っていきたいと思います。
(豊田市 長興寺所蔵) |
性格傾向の項目
1)合理的な考えの持ち主
2)自らの理想に対する強い固執
3)尊大で、傲慢
4)極めて慎重
5)潔癖さ
6)意外に気が小さいところがある
7)気の短さ
8)精力的であること
9)人任せにできないこと
10)意外に、外的なものごとへの見落としがある
各項目の解説
1)合理的な考えの持ち主
信長には、世間一般の、いわゆる「常識的」なものの見方や、社会規範(ルールやマナー)といったものに対するとらわれといったものはなかったと考えられます。世間一般の人たちがもつ ”こうあるべき” といったようなことへの「こだわり」といったものはなく、” ものごとの是非は、事と次第によっていくらでも変わるもの” と、彼は極めて「合理的」に考えていたと思います。したがって、旧来の宗教勢力や朝廷権力や室町幕府に対する絶対的な崇拝や服従といった中世的な常識的発想もないかわりに、自らの戦争遂行や領国支配などに必要とあれば、それらを利用することにもためらいはなかったものと考えられます。
青年期には、領主の跡取りにはふさわしくない装いや風体で街を闊歩していたとのことで、領民からは「大うつけ」と、陰であざ笑われていたとされています。ただ、たぶん、近習たちとの戦の訓練ごっこには、その姿の方が機能的であったと考えたための装いや風体であって、それも彼の、世間の常識や規範にとらわれない、合理的な考え方を表しているものではないでしょうか。
また、信長の合理的な考えは、彼の人材登用にも表れています。つまり、秀吉や光秀に象徴されるように、家柄や出自にとらわれず、有能だと見込んだ人材を積極的に登用し、彼らに重責を担わせています。
2)自らの理想に対する強い固執
信長の主要な関心というものは、自らの「内部の世界」に向いています。それは、自らやものごとに対する「理想的」なあり方や考え方であり、それに対しては強い「こだわり」を示します。つまり、容易にその考えを捨てることはなく、それに固執するのです。平たく言うと、自分の考えに対しては、極めて「頑固」だということです。
信長にとっての自らの主な理想といえば、それは「天下静謐」であり、そのための「天下布武」であり、信長は、自らが危険にさらされ、また、さまざまな困難に直面しながらも、精力的に、その理想を推し進めようとしました。たとえば、朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りに会い、命からがら京に戻った信長ですが、その二か月後には、姉川で浅井・朝倉連合軍と対峙し、それを何とか打ち破ってます。浅井・朝倉から見れば、信長はとても「執念深い」、「嫌な」存在ではなかったでしょうか。
3)尊大で、傲慢
信長にとって、一番好きなものは「自分」であり、大事にすべきものも「自分」であり、正しいのも「自分」であると考えられます。だから、特に、自分の部下たちからの意見や忠告などに対しては、基本的には、「自らの考えに相いれないものはすべて却下」といったような態度で接していたと考えられます。ルイス・フロイスは、信長のことを、 “ 自らの見解に尊大であった ” と書き記しています。
ただし、ものごとの道理はわきまえていたので、自分と対等か、格上だと考えるような人たちに対しては、それなりの礼儀をもって接していたと考えられます。また、現実を正しく吟味できる眼も持ちえていたので、自らの考えよりも優れていることに気がつけば、部下の提案も、たぶん、受けいれていたのでしょう。
4)極めて慎重
一度、決断した時は、迷いなく行動に移す信長ですが、決めるまでは、かなり慎重だったと考えられます。
たとえば、桶狭間の戦いの時は、籠城か、城を出て戦うかを決めるまでに時間をかけています。また、城を出て戦うと決めた後も、今川軍本隊と今川義元の居所を確かめるために、かなりの時間を使っています。物見を放ち、周辺の地侍にも情報の提供を命じ、そして、今川本陣についての地侍からの情報がもたらされて初めて、攻撃を決断します。
また、自らが計画した戦いに関しては、情報を集めたり、調略や謀略などの下工作をしたりなど、戦いに出るまでの間、かなり緻密な企てをした後に、初めて戦いを始めていると考えられます。
さらに、上洛の前には、武田信玄との同盟を確実なものにするため、武田家と姻戚関係をもったり、贈り物を送ったりなど、極めて丹念な外交的な工作を行っており、神経質とさえ形容できるような彼の慎重さぶりが見られます。
おそらくは、この慎重さが、彼が戦の戦術面で優れていたという理由の一つであり、その結果、信長が、尾張一国から日本の三分の一の領土を支配下に治めるまでなったと考えられます。
5)潔癖さ
信長にとって、この世界が、自らが 「よし」とするような形で「整えられていること」が何より重要であったと考えられます。つまり、ものごとは彼の考えている「秩序」の中にきちんと納まっているべきである、ということです。そうなっていれば、彼は「安心」であるし、その「秩序」が乱された場合には、「不快」となる訳です。その秩序の中に含まれる、彼の内的な規律は、「白」か「黒」かというように、極めて明確に区切られたものだと考えられます。そこから、彼の、極めつきの「潔癖さ」が生じていると考えます。ルイス・フロイスも、信長のことを "正義においては厳格" と書いています。
そのような「潔癖」な信長にとり、彼の考える「秩序」が乱されるような事柄は、彼に不快感を与え、気短な性向も相まって、彼に激しい怒りをもたらすことになります。
たとえば、室町将軍の足利義政の不正や怠慢を説いた十七条の「異見書」や、佐久間信盛親子を糾弾する十九条の「覚書」は、そのような信長の「潔癖さ」の表れとも考えられます。また、果物のかすを捨てずにそのままにした少女や、町人の女をからかっていた兵士をいきなり切り捨てたとされる行動も、同じものではないでしょうか。
その「秩序」の一つとして、小和田は、信長の「きれい好き」について言及しています。たとえば、信長は整備した街道の各所に箒を置き、近郊の村人に清掃させるよう命じています(ルイス・フロイス)。
6)意外に気が小さいところがある
戦国の英雄とされている信長には、不似合いと思われるかもしれませんが、彼の彼の尊大さの裏側には、彼の「気の小ささ」があると考えています。
すでに述べた慎重さも、その表れの一つだと考えます。慎重さも度を越せば、臆病にもなりえます。
それ以外のこととして、信長自らが人々から「みっともない」とか、「無様」と見られることをひどく心配していた節がある思います。先に述べた足利義政への「異見書」や佐久間信盛らへの「覚書」は、いずれも、彼らの落ち度を「世間」が許さないだろうといった形で書かれていますが、おそらく、信長自身に「面目」を失うような、恥ずかしい姿を世間に曝すことへの強い「恐れ」があったのではないでしょうか。
7)気の短さ
たとえば、桶狭間の戦いでは、いまが出陣の好機と思い立つと、主従六騎のみで城を飛び出し、後を追いかけてきた部下と熱田で合流をします。また、朝倉攻めの時、朝倉軍が退却を始めたので追撃のチャンスだと信長は見たのですが、配下の武将らが一向に動こうとしません。彼はそれに痺れを切らし、自らの兵のみで朝倉軍を追撃します。信長にとって、何もせず、ただじっと待つようなことは苦痛以外の何ものでもなかったのでしょう。このことは、信長の「気の短さ」に由来するものと考えられます。ルイス・フロイスも、信長のことを、" 非常に性急であり" と述べています。
8)精力的であること
信長には、ものごとがうまく進まないような時、へこんだりすることはなく、逆に、極めてエネルギッシュに行動するような傾向があると考えます。
たとえば、畿内の平定を試みていた時、浅井・朝倉、石山本願寺、信玄などに、いわゆる「信長包囲網」を結成されるといったことがありました。彼の、最も危機的な時期であったと言われています。この時期、信長不利と見た陣営がつぎつぎと挙兵をして信長を脅かしますが、信長は機敏に軍を動かし、それらを各個撃破していきます。同時に、信長は、浅井・朝倉や延暦寺との和議を朝廷に依頼したり、敵方の武将を寝返りさせたりなどの、調停・調略工作にも盛んに取り組みます。これらの「精力的」な信長の動きと、突然の信玄の死が転機となり、この包囲網は、次第に、信長により打ち破られていくことになります。
9)人任せにできないこと
これは、6)の「気の小ささ」に由来するものですが、やり方を間違うとリスクが大きいと信長が考えるような事柄については、人任せにはできず、すべて自分で仕切ろうとする傾向があると考えられます。ただ、戦線が拡大し、直接、自分では手が出せないような場合には、書状で細かく指示をしています。たとえば、鳥取城を攻めている秀吉に対して、細かく指示を出している信長の書状が、いまも細川家に残っています。
10)意外に、外界のことへの見落としがある
2)で述べたように、信長の主要な注意や関心は、自らの内部の世界に向けられています。そうだと、ややもすれば、外部のできごとやものごとについての注意がおろそかとなりがちとなります。それでは、危険から身を守ることはできないので、信長は、基本的には、外界に対して警戒的な態度を取ります。
ただ、いつも外界に注意を払い続けるのは、かなり疲れることです。なので、彼が「安全」・「安心」だと思うような人たち、たとえば、身内や部下や味方に対しては警戒心を緩めてしまいがちとなります。もともと、人の微妙な気持ちなどを察知することが不得手なのに加え、外界への警戒心が緩んでしまえば、結果、とても無防備な状態が彼に生まれる可能性があると考えられます。
このことが、信長が浅井長政、松永久秀、荒木村重などの武将の裏切りに会い、ついには、本能寺で死を迎えることになった理由の一つだと考えています。
この点で、真逆なのは、羽柴秀吉です。彼は、もともと関心が外界に向いている上、まわりの変化や人の気持ちに対しては非常に敏感で、それを察知して機敏に動くことができた人だと考えます。それが不得手な信長の欠点を、秀吉が補っていたという点では、ふたりは、いい「コンビ」だったのではないでしょうか。
◆プーチンとの性格的な類似点
以上のような信長の性格を見ていくと、プーチンとの類似性があることに気が付かれるかもしれません。信長を「戦国の英雄」と考えている人からは、ブーイングを受けるかもしれませんが、二人の性格を見比べると、明らかに、多くの点で、二人の性格に類似点があると考えます。詳しくは、「性格」から見たプーチンの記事を見てください。
また、信長は「戦国時代」、プーチンは「ソ連崩壊」といった混とんとした状況の中から頭角を現し、国の秩序を回復したという結果においても、似ていると考えられます。
◆性格の二面性
信長の評価に対し、一方で、「英雄」といったプラスの評価がある半面、「魔王」といったマイナスの評価もあります。ですが、ものごとには、すべて、プラスとマイナスの両面があるように、性格にも両面があると考えます。つまり、信長の性格のある面は、「天下統一」といった英雄的な行為と関連もするし、同じ性格の違う面は、非道で残虐な行為という形で表れていると考えています。また、彼のある性格の一面は長所であり、反面は弱点にもなりえのです。
【参考文献】