性格、性格分析、性格類型、プーチン、小室圭、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ゴッホ、水原一平

2022年8月27日土曜日

「性格」から見た織田信長-信長の成功と失敗の理由(わけ)-

     はじめに  


 「戦国武将」の第二回は、織田信長を取り上げます。

 信長が尾張一国の平定をほぼ達成できた頃、尾張に攻め込んできた今川義元を彼は逆に打ち取り、その後、美濃攻略を開始します。それを成し遂げた後、「天下布武」を掲げて、上洛を果たし、戦国大名や宗教勢力の抵抗や、味方の離反などの、さまざまな困難を乗り越え、畿内とその周辺の分国の支配に成功を収めます。でも、最後は、部下である明智光秀の謀反により、彼の野望は終わりを告げることになるのですが、彼の性格についての分析を通して、彼の成功と失敗の理由にも迫っていきたいと思います。


(豊田市 長興寺所蔵)








 性格傾向の項目  


1)合理的な考えの持ち主
2)自らの理想に対する強い固執
3)尊大で、傲慢
4)極めて慎重
5)潔癖さ
6)意外に気が小さいところがある
7)気の短さ
8)精力的であること
9)人任せにできないこと
10)意外に、外的なものごとへの見落としがある


 各項目の解説          


1)合理的な考えの持ち主

 信長には、世間一般の、いわゆる「常識的」なものの見方や、社会規範(ルールやマナー)といったものに対するとらわれといったものはなかったと考えられます。世間一般の人たちがもつ ”こうあるべき” といったようなことへの「こだわり」といったものはなく、” ものごとの是非は、事と次第によっていくらでも変わるもの” と、彼は極めて「合理的」に考えていたと思います。したがって、旧来の宗教勢力や朝廷権力や室町幕府に対する絶対的な崇拝や服従といった中世的な常識的発想もないかわりに、自らの戦争遂行や領国支配などに必要とあれば、それらを利用することにもためらいはなかったものと考えられます。
 青年期には、領主の跡取りにはふさわしくない装いや風体で街を闊歩していたとのことで、領民からは「大うつけ」と、陰であざ笑われていたとされています。ただ、たぶん、近習たちとの戦の訓練ごっこには、その姿の方が機能的であったと考えたための装いや風体であって、それも彼の、世間の常識や規範にとらわれない、合理的な考え方を表しているものではないでしょうか。
 また、信長の合理的な考えは、彼の人材登用にも表れています。つまり、秀吉や光秀に象徴されるように、家柄や出自にとらわれず、有能だと見込んだ人材を積極的に登用し、彼らに重責を担わせています。



2)自らの理想に対する強い固執

 信長の主要な関心というものは、自らの「内部の世界」に向いています。それは、自らやものごとに対する「理想的」なあり方や考え方であり、それに対しては強い「こだわり」を示します。つまり、容易にその考えを捨てることはなく、それに固執するのです。平たく言うと、自分の考えに対しては、極めて「頑固」だということです。
 信長にとっての自らの主な理想といえば、それは「天下静謐」であり、そのための「天下布武」であり、信長は、自らが危険にさらされ、また、さまざまな困難に直面しながらも、精力的に、その理想を推し進めようとしました。たとえば、朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りに会い、命からがら京に戻った信長ですが、その二か月後には、姉川で浅井・朝倉連合軍と対峙し、それを何とか打ち破ってます。浅井・朝倉から見れば、信長はとても「執念深い」、「嫌な」存在ではなかったでしょうか。



3)尊大で、傲慢

 信長にとって、一番好きなものは「自分」であり、大事にすべきものも「自分」であり、正しいのも「自分」であると考えられます。だから、特に、自分の部下たちからの意見や忠告などに対しては、基本的には、「自らの考えに相いれないものはすべて却下」といったような態度で接していたと考えられます。ルイス・フロイスは、信長のことを、 “ 自らの見解に尊大であった  と書き記しています。
 ただし、ものごとの道理はわきまえていたので、自分と対等か、格上だと考えるような人たちに対しては、それなりの礼儀をもって接していたと考えられます。また、現実を正しく吟味できる眼も持ちえていたので、自らの考えよりも優れていることに気がつけば、部下の提案も、たぶん、受けいれていたのでしょう。



4)極めて慎重

 一度、決断した時は、迷いなく行動に移す信長ですが、決めるまでは、かなり慎重だったと考えられます。
 たとえば、桶狭間の戦いの時は、籠城か、城を出て戦うかを決めるまでに時間をかけています。また、城を出て戦うと決めた後も、今川軍本隊と今川義元の居所を確かめるために、かなりの時間を使っています。物見を放ち、周辺の地侍にも情報の提供を命じ、そして、今川本陣についての地侍からの情報がもたらされて初めて、攻撃を決断します。
 また、自らが計画した戦いに関しては、情報を集めたり、調略や謀略などの下工作をしたりなど、戦いに出るまでの間、かなり緻密な企てをした後に、初めて戦いを始めていると考えられます。
 さらに、上洛の前には、武田信玄との同盟を確実なものにするため、武田家と姻戚関係をもったり、贈り物を送ったりなど、極めて丹念な外交的な工作を行っており、神経質とさえ形容できるような彼の慎重さぶりが見られます。
 おそらくは、この慎重さが、彼が戦の戦術面で優れていたという理由の一つであり、その結果、信長が、尾張一国から日本の三分の一の領土を支配下に治めるまでなったと考えられます。



5)潔癖さ

 信長にとって、この世界が、自らが 「よし」とするような形で「整えられていること」が何より重要であったと考えられます。つまり、ものごとは彼の考えている「秩序」の中にきちんと納まっているべきである、ということです。そうなっていれば、彼は「安心」であるし、その「秩序」が乱された場合には、「不快」となる訳です。その秩序の中に含まれる、彼の内的な規律は、「白」か「黒」かというように、極めて明確に区切られたものだと考えられます。そこから、彼の、極めつきの「潔癖さ」が生じていると考えます。ルイス・フロイスも、信長のことを "正義においては厳格" と書いています。
 そのような「潔癖」な信長にとり、彼の考える「秩序」が乱されるような事柄は、彼に不快感を与え、気短な性向も相まって、彼に激しい怒りをもたらすことになります。
 たとえば、室町将軍の足利義政の不正や怠慢を説いた十七条の「異見書」や、佐久間信盛親子を糾弾する十九条の「覚書」は、そのような信長の「潔癖さ」の表れとも考えられます。また、果物のかすを捨てずにそのままにした少女や、町人の女をからかっていた兵士をいきなり切り捨てたとされる行動も、同じものではないでしょうか。
 その「秩序」の一つとして、小和田は、信長の「きれい好き」について言及しています。たとえば、信長は整備した街道の各所に箒を置き、近郊の村人に清掃させるよう命じています(ルイス・フロイス)



6)意外に気が小さいところがある

 戦国の英雄とされている信長には、不似合いと思われるかもしれませんが、彼の彼の尊大さの裏側には、彼の「気の小ささ」があると考えています。
 すでに述べた慎重さも、その表れの一つだと考えます。慎重さも度を越せば、臆病にもなりえます。
 それ以外のこととして、信長自らが人々から「みっともない」とか、「無様」と見られることをひどく心配していた節がある思います。先に述べた足利義政への「異見書」や佐久間信盛らへの「覚書」は、いずれも、彼らの落ち度を「世間」が許さないだろうといった形で書かれていますが、おそらく、信長自身に「面目」を失うような、恥ずかしい姿を世間に曝すことへの強い「恐れ」があったのではないでしょうか。


7)気の短さ

 たとえば、桶狭間の戦いでは、いまが出陣の好機と思い立つと、主従六騎のみで城を飛び出し、後を追いかけてきた部下と熱田で合流をします。また、朝倉攻めの時、朝倉軍が退却を始めたので追撃のチャンスだと信長は見たのですが、配下の武将らが一向に動こうとしません。彼はそれに痺れを切らし、自らの兵のみで朝倉軍を追撃します。信長にとって、何もせず、ただじっと待つようなことは苦痛以外の何ものでもなかったのでしょう。このことは、信長の「気の短さ」に由来するものと考えられます。ルイス・フロイスも、信長のことを、" 非常に性急であり" と述べています。



8)精力的であること

 信長には、ものごとがうまく進まないような時、へこんだりすることはなく、逆に、極めてエネルギッシュに行動するような傾向があると考えます。
 たとえば、畿内の平定を試みていた時、浅井・朝倉、石山本願寺、信玄などに、いわゆる「信長包囲網」を結成されるといったことがありました。彼の、最も危機的な時期であったと言われています。この時期、信長不利と見た陣営がつぎつぎと挙兵をして信長を脅かしますが、信長は機敏に軍を動かし、それらを各個撃破していきます。同時に、信長は、浅井・朝倉や延暦寺との和議を朝廷に依頼したり、敵方の武将を寝返りさせたりなどの、調停・調略工作にも盛んに取り組みます。これらの「精力的」な信長の動きと、突然の信玄の死が転機となり、この包囲網は、次第に、信長により打ち破られていくことになります。



9)人任せにできないこと

 これは、6)の「気の小ささ」に由来するものですが、やり方を間違うとリスクが大きいと信長が考えるような事柄については、人任せにはできず、すべて自分で仕切ろうとする傾向があると考えられます。ただ、戦線が拡大し、直接、自分では手が出せないような場合には、書状で細かく指示をしています。たとえば、鳥取城を攻めている秀吉に対して、細かく指示を出している信長の書状が、いまも細川家に残っています。


10)意外に、外界のことへの見落としがある

 2)で述べたように、信長の主要な注意や関心は、自らの内部の世界に向けられています。そうだと、ややもすれば、外部のできごとやものごとについての注意がおろそかとなりがちとなります。それでは、危険から身を守ることはできないので、信長は、基本的には、外界に対して警戒的な態度を取ります。
 ただ、いつも外界に注意を払い続けるのは、かなり疲れることです。なので、彼が「安全」・「安心」だと思うような人たち、たとえば、身内や部下や味方に対しては警戒心を緩めてしまいがちとなります。もともと、人の微妙な気持ちなどを察知することが不得手なのに加え、外界への警戒心が緩んでしまえば、結果、とても無防備な状態が彼に生まれる可能性があると考えられます。
 このことが、信長が浅井長政、松永久秀、荒木村重などの武将の裏切りに会い、ついには、本能寺で死を迎えることになった理由の一つだと考えています。
 この点で、真逆なのは、羽柴秀吉です。彼は、もともと関心が外界に向いている上、まわりの変化や人の気持ちに対しては非常に敏感で、それを察知して機敏に動くことができた人だと考えます。それが不得手な信長の欠点を、秀吉が補っていたという点では、ふたりは、いい「コンビ」だったのではないでしょうか。

 

プーチンとの性格的な類似点    

 以上のような信長の性格を見ていくと、プーチンとの類似性があることに気が付かれるかもしれません。信長を「戦国の英雄」と考えている人からは、ブーイングを受けるかもしれませんが、二人の性格を見比べると、明らかに、多くの点で、二人の性格に類似点があると考えます。詳しくは、「性格」から見たプーチンの記事を見てください。
 また、信長は「戦国時代」、プーチンは「ソ連崩壊」といった混とんとした状況の中から頭角を現し、国の秩序を回復したという結果においても、似ていると考えられます。



性格の二面性  

 信長の評価に対し、一方で、「英雄」といったプラスの評価がある半面、「魔王」といったマイナスの評価もあります。ですが、ものごとには、すべて、プラスとマイナスの両面があるように、性格にも両面があると考えます。つまり、信長の性格のある面は、「天下統一」といった英雄的な行為と関連もするし、同じ性格の違う面は、非道で残虐な行為という形で表れていると考えています。また、彼のある性格の一面は長所であり、反面は弱点にもなりえのです。

◇戦国武将シリーズの続きの投稿記事は、「性格」から見た秀吉-天下統一の達成と晩年の驕り-です。ぜひ、ご覧に!

【参考文献】

小和田哲男、「集中講義 織田信長」、新潮文庫、2003.




 


 





2022年8月10日水曜日

「性格」から見た明智光秀-なぜ本能寺の変は起こったのか-

  はじめに  

 今回からは、戦国武将のたちの性格の分析を試みてみます。

 第一回の人物は、二年前の大河ドラマ、「麒麟‥‥」の主役であった明智光秀です。
 彼は、京での信長の宿であった本能寺を急襲し、主君である信長を討つといった「謀反」を企てた人物です。その動機については、未だ、「謎」が多いとされていますが、彼の性格についての分析を通して、その「にも挑んでみたいと思います。




(岸和田市 本徳寺所蔵)
(岸和田市 本徳寺所蔵)


  性格傾向の項目  


1)自らの役割や立場に対しては「従順」
2)温和な人柄
3)怖がり
4)自律神経系の異常による発作
5)思いがけない、大胆な行動をとる

 では、一つずつ説明していきます。


  各項目の解説   


1)自らの役割や立場に対しては「従順」
 光秀は、自らに与えられた「役割」や、自らが置かれた「立場」というものがあると、それには、極めて「従順」であり、まわりの期待に、一生懸命、応えようとするような人だったと考えています。事実、信長の配下になってからは、信長の指示には極めて「従順」で、ほとんど休むことなく、働き続けています。たとえば、丹波一国の攻略を任されながら、その上、信長の命により、あちこちの戦線に駆り出され、戦しています。また、彼は「武人」でありながら、人材不足の織田政権の中にあっては、さまざまな制度改革や外交にも取り組むなど、「官僚」としての役割をも果たしていたとされています。その彼の働きぶりを信長も高く評価していたようです。
 また、信長が戦場にある時に一人酒宴を楽しむようなことはできない、と語ったといったエピソードがありますが、その光秀からは、いかなる時も、「信長に付き従う」といった、自らの立場を忘れてはいない姿がうかがわれます。
 さらに、ある資料では、光秀を秀吉と比較して、秀吉の「豪放磊落」に対して、光秀を「謹厳実直」の人と形容しています。


2)温和な人柄
 彼の残した書状からうかがい知ることのできる光秀は、支配下の国衆や部下に対して、決して「強圧的」、「高圧的」な態度はとらず、書状の中身は「厚礼」であり、相手を気遣ったり、相手に寄り添ったりといった、「優しさ」を感じさせるような人物であった、とされています。
 ちなみに、この光秀と対照的なのは信長であり、「(彼は)非常に性急であり」、「(時に)激昂する」と、宣教師のルイス・フロイスは述べています。


3)怖がり
 信長への謀反の企てについて、光秀の側近の人たちに打ち明けたのは、出陣の前であったとされています。また、部隊に対しては、本能寺を攻める直前に信長討伐を命じています。このように、企てが外に漏れないようにとの、かなり注意深い態度がうかがえます。これは彼の「慎重」な性格からというよりは、信長のことをひどく「恐れていた」ことからくるものではないでしょうか。万一、打ち漏らした時の信長が、彼は「心底怖かった」のではと考えています。
 このため、彼の謀反の企てを、毛利や長曾我部などの反信長陣営は前もって知らされることはなかったし、光秀の下で働いていた武将(与力)も前もって光秀に味方するよう、打診は受けていなかったことになります。それが、謀反後、秀吉の「大返し」を許し、また、光秀に味方をする武将を結集できないまま、山崎の戦いでは、兵の数において勝った秀吉軍に敗れるという結果をもたらしたのではないでしょうか。


4)自律神経系の異常による発作
 彼の性格から派生するものとして、自律神経系の異常による発作という「症状」を取り上げてみました。
 天正4年(1576)5月、石山本願寺攻めの陣中で、光秀は病に倒れます。どんな病だったのか、詳しい記録はないのですが、7月に友人の吉田兼見が坂本で光秀に会った時には、病は「平癒」したらしく、10月には、京都で職務に復帰しています。
 はたして、この病は何であったのか?
 単なる「過労」であれば、しばらく休養をとれば回復するはずなので、わざわざ陣を離れてまで、病の治療や療養をする必要はないと考えられます。一方、脳や内臓などの重い病気であれば、二か月位で平癒するはずもないでしょう。だから、倒れた時は、重篤に見えても、自律神経系の異常なら、回復に左程の時間を要することはないと考えられます。
 1)で述べたように、彼は与えられた役割を従順に果たそうとする傾向があります。その光秀に信長は矢継ぎ早に命令を出し、光秀はその期待に応えようとするといったサイクルが生まれても不思議はないと考えられます。結果、光秀は激務により過労状態となっただけでなく、さまざまな納得いかないこともやらされたり、まわりへ気遣いしたりしたことでの、精神的なストレスも加わり、自律神経系の異常による発作を起こしたのではないのかと考えています。彼には、秀吉のように不満を「行動」で現わすといったようなことができず、その時点では、「病」といった形でストレスを表現したのではないかと思われます。


5)思いがけない、大胆な行動をとる
 すでに述べたように、光秀は「従順で、温和な人」といった傾向をもつ人物です。でも、彼の性格の中には、ある時点で、突如、まわりがびっくりするような、「大胆な行動」をとる可能性があると考えています。
 すでに述べたように、光秀は主君である信長の命に従順に従い、信長の評価を得るために、懸命な努力を続けてきました。だが、その結果、病に倒れてしまう訳です。その後も、信長の命により光秀は激務を強いられ、また、味方の離反などの難題に直面させられます。それが肉体的にも、精神的にも彼を疲弊させ、それなのに、その彼の働きが必ずしも評価されていないことへの光秀の不満や先行きの不安が募る中で、少しずつ、彼に信長に対する「叛意」が生まれ、それが増大していったとしても不思議ではないと考えられます。それまで「従順」であったことの反動としての、信長に対する激しい怒りなのでしょう。でも、光秀にとっては信長は「怖ろしい存在」であり、不用意に行動に移す訳にはいかないので、「密かに」反逆の機会を狙っていた可能性があると考えます。

 もちろん、それだけでなく、彼には信長にとって代わり、天下を取るという「野心」もあったはずです。彼には、これまでの自らの実績から、軍事的でも、政治的でも、天下を仕切るだけの実力があるといった「自負」があったとしても不思議ではないと考えられます。
 以上のような彼の内面や「時に、大胆」といった性格は、「従順で、温和な人」といった彼の外見からはうかがい知れないので、光秀の謀反は、まわりの人たちの眼には「青天の霹靂」と映ったのかもしれません。

◇戦国武将のシリーズの続きの投稿記事は、「性格」から見た織田信長-信長の成功と失敗の理由(わけ)-です。


【参考資料】

福島克彦「明智光秀-織田政権の司令塔」、中央公論新社、2020.
高柳光寿「人物叢書 明智光秀」、吉川光文堂、1980.
ルイス・フロイス「回想の織田信長」、中央公論社、1977.
志村宗生性格と精神疾患」、金剛出版、2015.

志村宗生「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」、東京図書出版、2023



 
 




 
 
 

          

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