性格、性格分析、性格類型、プーチン、小室圭、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ゴッホ、水原一平

2022年10月19日水曜日

「性格」から見たプーチン (2)-核兵器の使用の可能性-

 はじめに 

 プーチンによるウクライナ侵攻が始まって、はや8ヶ月の月日が経ちました。
  その間に、キーウ侵攻の失敗、ブチャの虐殺、ウクライナ軍の反転攻勢など、戦況は、侵攻当初とはかなり違った様相となっています。
  それでも、未だ戦争の終結は見えてこず、また、戦況がロシア側に不利なものとなるに従い、プーチンによる核兵器の使用の恐れといった問題も、この戦争をさらに深刻なものとしています。

 そこで、第2弾として、「性格類型」を通して見た、プーチンの「核兵器使用の可能性」について考えていきたいと思います。

 なお、第3弾では、「戦争終結への道筋」について考えていく予定です。





 プーチンによる核使用の可能性 

1)核使用への言及

 侵攻当初から、プーチンは、しばしば、ウクライナや欧米に対する核兵器の使用について、それをほのめかしたり、明らかに言及したりしています。いわゆる、プーチンの核による「恫喝」です。
 8月からのウクライナ側の反転攻勢が成果を上げつつある今日、ロシア側の核兵器使用についての発言が強まっているように見えます。この場合の核兵器とは、大都市を丸ごと廃墟とするような大型の核兵器ではなく、主に、「戦略核」と呼ばれているような、もっぱら戦場で用いられる小型の核兵器のことです。それでも、日本に落とされた「原爆」とあまり変わらない威力をもつものであり、民間人の無差別殺戮や、広域の放射能汚染を引き起こす可能性が否めない兵器です。


2)核抑止とは、核による恫喝

 ところで、核兵器は、そのすさまじい破壊力ゆえに、主に、局地戦での使用目的ではなく、あくまで、大国同士の大戦を「抑止」する目的で保持されている兵器です。つまり、抜かれることのない「伝家の宝刀」のようなものです。だから、核兵器をもつことで、自国の存亡にかかわるような敵の侵略があれば核兵器を使用すると、相手を「威嚇」、「恫喝」することで、そのような侵攻を未然に「抑止」しているものなのです

 つまり、核兵器とは、” そもそも” 、敵に対する「威嚇」や「恫喝」として用いられているものです。通常は、それは「言わずもがな」の事柄に属するものなのですが、プーチンは、「情報戦」の一環として考えているのか、核使用についてたびたび言及しているに過ぎないとも考えられます。


3)プーチンは無謀なことをしない

 すでに第一弾で述べた、プーチンの性格の中で、「気が小さい」という性格傾向の項目をあげています。

 「尊大」な態度からは想像しにくいのですが、彼は、とても「慎重」な性格で、「臆病」ともいえるような人だと考えています。つまり、彼は、傷つくこと、自分が無力だと感じることに恐れを抱いており、そうなることを極力避けるために、「完全」な存在となることを目指していました。そうする中で、自らが「完全」を達成した人間と思い込むに至り、プーチンは、あのような「尊大」な自己像をもつことになったと考えられます。

 マスコミによる報道の中で、「偉大なロシア」といったプーチンの考え方は「妄想」であり、無謀なウクライナ侵攻を行ったプーチンは「理性を失っている」と考える人たちがいます。つまり、彼は、妄想に囚われた、気がふれた人物だと。でも、彼の性格から見ると、「偉大なロシア」は彼の「内なる理想」であり、ウクライナ侵攻も彼なりに、理性的に考えた結論だと、考えられます。

 ところで、合理的に考えれば、ウクライナ侵攻で核兵器を使用することは、第一に、戦争のステージを変えてしまうもので、これまでも見られたように、欧米のさらなる介入を招き、ロシアにとって戦況が今よりも不利となっていく可能性があります。また、広大な領土をもつウクライナで、小型の核兵器の使用がどの程度戦況を有利に導くかは疑わしいとされています。それに、核兵器の使用は、世界各国の非難を浴び、世界におけるロシアの孤立をさらに深めることでしょう。

 このように考えると、いまのプーチンが核兵器の使用という「大胆な行動」に出ることは、まずないと考えられます。彼は、彼が「無謀」と考えるようなことはする人ではないからです。また、やってみなければわからないようなことに、あえて「挑戦」する人ではないと考えられます。だから、現状では、動員による通常戦力の強化とか、彼が有能と考える司令官の登用など、この戦況に対して彼なりの「合理的」な対処を試みていくと考えられます。

 ただ、彼は自らを「完全」と考えていて、まわりの意見に耳を傾けてこなかったという問題があり、さらに戦況の悪化した後も、核兵器の使用に対して、プーチンが合理的、かつ、慎重でありうるのかという点で、多少不透明さはぬぐえないかもしれません。

◇このシリーズの続きの記事は、「性格」から見たプーチン(3)-戦争終結の難しさ-です。


【参考文献】

「強迫パーソナリティ」、L.サルズマン、1973.(邦訳:成田善弘、笠原嘉、みすず書房、1998.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

 


 

2022年10月18日火曜日

「性格」から見た秀吉-天下統一の達成と晩年の驕り-

 はじめに 

 天下統一の志半ばでたおれた信長の後を引き継ぐ形で、それを成し遂げた人物が羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉す。彼の天下取りは、信長のような、主に武力にたよる力攻めでなく、大軍を背景にしながらも、調略や説得を主として、戦わずに相手方を屈服させるというものでした。それは、両者の性格の違いを表していると考えられます。
 今回は、秀吉の「性格」の分析を通して、彼が天下の覇者となった理由と、彼の死後、豊臣家を滅亡へと導く要因となった、晩年の彼の「驕り」ついても述べてみます。

 彼の性格傾向についてあげてみます。

     
      (豊臣秀吉肖像 高台寺所蔵)


 性格傾向の項目 

1)基本的に、「前向き」
2)ものごとの対処には「万全を尽くす」
3)ものごとに対する自分なりの「基準」がある
4)気が回る
5)気配り・気遣い
6)世話好き・面倒見がいい
7)目立ちたがり
8)「情」がある
9)「驕り」=自らの考えの押しつけ


 各性格傾向の説明 

1)基本的に、「前向き」

 秀吉は、ものごとに対して、基本的に、前向きで、積極的な姿勢をもつ人だと考えています。彼は、リスクを冒すことにためらいはなく、前向きに、ものごとに突き進んでいくように見受けられます。つまり、何事にも「守り」でなく、「攻め」の態度や姿勢が際立つ人ではないでしょうか。そのことが、ある面では、「陽気」とか、「根が明るい」といった印象をまわりに与えていたのではないでしょうか。

2)ものごとの対処には「万全を尽くす」

 「攻め」の姿勢といっても、秀吉は闇雲に突き進んだという訳ではないと考えられます。ものごとがうまく進み、その結果、目標がきちんと「達成」されるよう、事前の準備を怠らず、また、その経過がうまくいっているかにも細かく気を配るなど、自らの仕事には「万全を尽くす」ような人だったと考えられます。「完ぺき主義者」といってもいいでしょう。 
 事実、因幡の鳥取城を攻略する際には、事前に、敵の兵糧米として使われないように、因幡の国の米を買いあさったり、兵糧米を減らすように籠城する人を増やすような謀りことをしたりしています。もちろん、取り囲んだ後も、外から援軍や兵糧米が城に入らないよう、細心の手配を怠ることはありません。
 同じく信長にも完ぺき主義的な傾向がある人なのですが、信長のそれは、極力、「過ちを避ける」といった形の完ぺきであり、ものごとの達成には「最善」を求め、完ぺきを押し進めようとする秀吉の完ぺきとは、やや異なるものと考えます。

3)ものごとに対する自分なりの「基準」がある

 秀吉は、ものごとに対しての自らの考えやものの見方をはっきりと持っている人だったと考えています。つまり、ものごとは、「こうあるべき」とか、「こうすべきとか」、「これが正しい」とか、はっきりとした自分なりの「基準」をもっていたと考えています。
 その基準があればあれこれ考える手間が省けるため、ものごとの対処についての「判断」は素早くできる半面、ややもすると、ものごとに対する独断的な「思い込み」となるリスクをはらんでいると考えられます。
 北陸で上杉謙信と対峙していた柴田勝家が苦戦をしていた際、勝家への支援を信長に命じられるのですが、信長の許しもないまま、戦線を離脱し、居城に帰ってしまいます。それは、作戦進め方で勝家と意見が合わなかったことがその理由と言われていますが、当然、信長はそれに激怒します。でも、運よく松永久秀の謀反が起こったこともあって、信長の赦しが出ることになりますが、そんなリスクを冒してまで、彼は「自らの正しさ」を貫こうとしたのだと考えられます。
 話は変わりますが、秀吉の関心は自らの内面でなく、多くは「外部」の世界、つまり、人やものごとに向けられていたと考えられます。これは、主要な関心が自らの「内部の世界」に向いている信長とは、対照的だと考えられます。

4)気が回る

 「気が回る」とは、" 細かいところまで注意が行き届く" といった意味であり、「気が利く」という言葉とほぼ同義とされています。
 秀吉は、さまざまなものごとについて、人が気づかないようなところに注意(意識)がいき届くといった、優れた才能をもっており、主人に仕えた時には、その能力が十分に生かされ、彼の働きは主人に認められていきます。
 信長に仕えた時も、早朝の火事で、信長が出ようとした時、秀吉が馬を用意していたとか、鷹狩りの時、声がかかると一番に控えていたとか、といった逸話があるとのことです。
 また、他の人がしないような発想をするの持ち主だったらしく、塀の普請を任された時、工事の個所を組に割り振り、互いに競わせることで、短期間で完成させたとのことです。

5)気配り・気遣い

 そんな秀吉は、「人」に対しても、細かいところまで注意が行き届く人だったと考えられます。つまり、まわりの人たちの気持ちや考えを敏感に察知できる人であり、「共感性が高い」人と言えます。その上、人に対して、抜群の「気配り」や「気遣い」ができる人だったと考えられます。
 たぶん、人を説得する場合にも、相手が何を考えているか、何を欲しているか、それらをうまく察知し、その上で、さらに相手への「気配り」もでき、特に、敵将への調略工作のには、その能力が最大限発揮されていたものと考えられます。
 たとえば、武力による信長の美濃攻略がうまくいかず、行き詰っていた時、秀吉は敵方の主な武将を次々と調略し、彼らを味方に引き入れるといった活躍を見せています。それが、信長の美濃攻略を最終的に成功に導いたとされています。
 信長の死後、天下統一を果たす時も、圧倒的な軍事力を誇示しつつも、むしろ、心理戦で敵を屈服させるといったやり方を選択しているのは、秀吉が人の心を読むことに抜群の能力があったためだと考えられます。秀吉は、この才能を発揮することで、信長の死後、たったの8年で、天下統一を成し遂げます。
 人びとに対する気配り・気遣いは、正室や側室に対して書かれた手紙の書面からもうかがわれます。秀吉の彼女らに書いた手紙が数多く残されており、その中で、彼は、贈りもののお礼や健康への配慮など、彼女たちに実に細やかな気遣いをしています。


6)世話好き・面倒見がいい

 もともと有力な部下がいなかった秀吉は、出世をする過程で、優秀な人材を見い出しては部下として取りたたています。とりわけ、気に入った部下には目をかけ、彼らを教育をしたり、生活面でも世話をしたりしています。彼らが戦や政務などで結果を出せば、知行を与え、彼らをひとかどの武将として取り立てていきます。そのようにして、「子飼い」の家臣団を形成していき、その彼らの働きが秀吉の天下統一をサポートしていったものと考えられます。


7)目立ちたがり

 秀吉は、「人から認められること」、また、「人から注目されること」への、潜在的な欲求がある人だと考えています。彼の出世に対するインセンティブの一部は、その欲求に由来するものではないでしょうか。
 4)で述べたように、「気が利く」といった才能があり、それを生かした働きぶりを主人に評価されるわけですが、それを敢えてまわりに隠そうとはせず、むしろ、アピールするようなところが彼にはあったと考えられます。
 それが、ネガティブに働くこともあります。たとえば、信長に仕える前、松下嘉兵衛という武士に奉公したことがありますが、主人に取り立てられていく秀吉はまわりの人たちの妬みや嫉みを買い、いじめられたため、主人のところにいられなくなるということもありました。
 さらに、天下人になった後、彼は朝鮮や大国のの支配を求め、朝鮮出兵を強行します。その背景には、「天下人」ではもの足りず、さらに「名声を得たい」といった、彼の強い功名心があったのではないでしょうか。その自己顕示的な傾向が、彼の暴走ともいえる行為を招いた一因ではないでしょうか。


8)「情(ジョウ)」がある

 「情」といっても、情熱とか怨念とかの強い情ではなく、たとえば、家族に対する「情愛」のような「情」だったり、「感傷」、つまり、ものごとに感じやすく、すぐ悲しんだり同情したりするような類の「情」だったのではないでしょうか。
 彼が、母や正室のおね、または、側室たちにあてた手紙が多数残されていますが、その文面からは、彼らに対する細やかな「情」がうかがわれます。
 ちなみに、信長は、そうした「優しさ」の表出は「弱さ」の表れとして相手に見くびられるリスクがあると考えるところのある人なので、それらを極力抑制しており、それゆえ、「冷たい」人と見られていたと考えられます。
 ちなみに、その「情」は、ある程度、子飼いの部下や、一部の大名やその家来に対しても示されているようで、秀吉への「恩義」というものは、知行を与えられたことだけでなく、そうした「情」からも生じていたのではないでしょうか。そのような形で築かれた主従関係は、彼の強権と相まって、天下を統治するのに役立っていたものと考えられます。ただ、それは秀吉の存命中に限られたもので、彼の死後、それによる天下統治の力は弱まっていった可能性があります。

 

9)「驕り」=自らの考えの押しつけ

 3)で述べたように、秀吉には、「べき」とか、「正しい」といった、ものごとへの自らの「基準」があります。それに相手が強く反発できないような場合には、それを一方的に押しつけようとする傾向が生じる可能性があります。特に、天下人となった後に、その傾向がさらに強まったものと考えられます。
 7)で述べた、彼の功名心だけでなく、天下人となり、自分の考えを押し通すことができるようになったことも、秀吉を朝鮮出兵といった無謀な行動を強行した一因ではないかと考えています。
 ちなみに、現代では、このような「驕り」から、部下に、自らの「正しい」考えを一方的に押しつける上司の行動は、パワハラと呼ばれています。

◇「戦国武将シリーズ」の続きの投稿記事は、「性格」から見た徳川家康-律儀者か、狸親爺か-です。


【参考文献】

「秀吉のすべてがわかる本」、小和田哲男、三笠書房、1995.
「太閤の手紙」、桑田忠親、講談社、2006.
「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.






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