性格、性格分析、性格類型、プーチン、小室圭、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ゴッホ、水原一平

2022年12月21日水曜日

「性格」から見た徳川家康-律儀者か、狸親爺か-

 はじめに 

 今回は、戦国武将シリーズの最後に、徳川家康を取り上げてみました。

 ご存知のように、彼は、江戸に幕府を開き、265年もの間の、太平の世の礎(イシズエ)を築いた人です。ちなみに、徳川家康は、来年、某局の大河ドラマの主人公になるようです。 

 今回も、新しい性格類型を通して、彼の性格から見えてくる徳川家康の人となりを探っていきたいと思います。


(日光東照宮所蔵)


 ところで、家康については、律儀我慢強いといった評価がある半面、狸親爺に代表されるような、腹黒い利己的といった評価があります。
 それについては、彼の生得的な性格と、生育環境のために形作られた性格といった、二つの観点から、読み解いていきたいと思います。
 彼の生得的な性格とは、前向きで、冒険を好み、ものごとへの考えがしっかりあり、目的を達成することに意欲的なものだったと、考えています。
 けれど、幼少時期からの13年間の人質生活により、自らの考えや行動を自己規制する性格傾向が形成されたのではないか、と考えています。
 そして、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、今川家の支配から解放された後、次第に、生来の性格の方が優勢となっていったのではないかと考えました
 彼の性格傾向の特徴を具体的に述べる中で、それを明らかにしていきたいと思います。

 


 家康の性格の特徴 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向
2)劣等感が強い
3)二番手の位置を好む
4)にらまれないよう気を遣う
5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処
6)教訓話しが好き

 各項目の説明 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向

 家康、特に、人生前半の家康は、自らの考えを表出したり、自らのやり方を実行したりすることを自己抑制するといった傾向が強かったと考えています。なので、意見を求められるような場合でも、彼はかなり控えめだったと考えられます。また、行動の面でも、何事にも用心深く自重する傾向が強く、また、彼の上に立つ人に対しては従順であったのだと考えられます。

 その理由は、" 苦難 " の連続とも言える彼の生い立ちに関係すると考えています。なので、それについて少しお話します。



(現在の岡崎城)


 家康は、三河の岡崎城城主である松平広忠の長男として、1942年に誕生します。ところが、母である於大の実家が敵方についたことで、家康(当時は、竹千代)が3歳の時、父広忠は於大を離別します。つまり、家康は3歳で実家に戻った母親とは別れ別れとなる訳です。その後、父の広忠が今川義元に従属せざるを得ない立場にあったため、当時、6歳であった家康は人質として義元の居城のある駿府に送られることとなり、さらに、父とも離されることになります。

 でも、その途中で、竹千代は敵方である織田の手に渡り、織田信秀の人質となってしまいます。信秀は、人質をたてに広忠に寝返りを要求しますが、広忠はそれを拒ばみます。幸いにも、そのことで竹千代は殺されることもなかったのですが、尾張での2年間の人質生活を強いられることになります。さらに、その間に、父の広忠が臣下に殺されるという、さらなる不幸が起こり、父の居城であった岡崎城は、今川方に没収されることとなります。



 その後、信秀と義元の間での人質交換により、家康は駿府に送られ、そこで、19歳となるまで、11年間の人質生活を送ります。人質といった立場ゆえに、行動は制限され、常に監視され、義元の命令にはすべて従わざるをえないといった環境下で、ひたすら忍従を強いられる生活を送ったのではないかと考えられます。また、義元の家臣たちにも軽く見られたり、侮られたりといった、屈辱的な出来事もあったようです。不用意なことをすると、まわりにバッシングされるようなことがあり、そのため、何事にも用心深くなったのではないかと考えています。

 このように、自由の少ない抑圧的な環境に身を置いていたため、「自らで自らを抑えてしまう」といった性格傾向が形作られたものと考えられます。つまり、積極的な行動や主張を控え、すべてに用心深く自重気味に行動することを自動的に選択するようになったと考えられます。当然、自由な感情表出も、自ら抑え込むようになっていったと考えられます。

 ただ、自己抑制的であったことが、プラスに働いた面もあると考えられます。それは、まわりの意見を取り入れようとする志向性が生じたということです。つまり、自分の考えが正しいと考え、それを推し進めようとするのではなく、まずは相手の話を訊き、相手から学ぼうといった姿勢につながっていったのではないでしょうか。


2)劣等感があった

 あくまで、新しい性格類型からの類推ですが、彼の生来の性格として、家康には、自らを人と比較する傾向があったのではないかと考えられます。その比較する対象が自分より優れた人たちなので、その結果、多少とも、劣等感を抱く傾向があったと考えられます。

 ただ、幼少時から後年に至るまで、彼のそばには、今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉といった、錚々たる武将が常にいました。彼らの能力、知識、経験などに対して「自分は及ばない」 と感じていたとしても不思議ではないと考えます。そのため、彼の劣等感はより強められたかもしれません。

 この劣等感が、彼に自信のなさをもたらしていた可能性があります。こころざしや野心があったとしても、彼らがいる間は、「自分にはできる」といった自信をもつことができなかったのではないかと考えられます


3)二番手の位置を好む

 すべてにあまり自信が持てず、抑制的にふるまうといった彼の性格傾向からは、彼にとって頂点に立つというよりも、トップの人のすぐ下の位置にいて、トップを支えるという立ち位置の方がに合っていたものと考えられます。また、マラソンで、風による抵抗を避けるためにトップランナーの後ろにつくのと同じように、二番手の方が体力や精神の消耗が少なかったのではないでしょうか。さらに、家康は、尊大な態度を取ったり、栄耀栄華を味わったりすることへの願望が乏しい人だと考えられます。それらがトップの下の立場を長く続けられた理由かもしれません。事実、義元、信長、秀吉の下で、二番手として、ひたすらトップを支え続けており、その間は、反逆を企てる素振りを、まったく見せてはいません。

 ただ、家康の生来の性格は、必ずしも、律儀で、誠実で、従順な性格では決してなかったと考えています

 彼は、二番手としてトップを支えながらも、二番手に許された自由を利用しながら、実績を積み、着々と国力を蓄えていったと考えられます。それらが、それなりの自信を家康にもたらしていたのではないでしょうか。しかも、単に一国の大名となることを目標としていたのではないと思います。強い野心や欲望ではなかったでしょうが、それが実現可能なものであれば、自らの手で天下を治めるといった夢を持ち続けていた人だと考えます。そうでなければ、先人たちを踏み台として天下を取るようなことは、到底できなかったと思います。


4)にらまれないよう気を遣う

 家康には、もともとまわりに気を遣う傾向はあったと考えています。その上、長年、"人質 "という立場にあり、義元やその家臣たちににらまれるということは、少しでも間違えれば、死を意味することでもあるで、彼らに嫌われないよう、極度に気を遣うという傾向がさらに強化されていったと考えられます。

 この傾向は、信長に対して顕著だったと考えられます。それについて、以下の二つの出来事について説明をします。

 第一のものは、武田信玄が上洛のため、精鋭二万余千の大軍を引き連れ、家康のいる遠江に進軍してきた時のことです。家康方は信長の援軍を加えても一万一千たらずで、当初、彼は浜松城に籠城して戦うことを決めます。ところが、信玄は浜松城を素通りし、西に進軍を始めます。このままでは、信長が窮地に追い込まれる可能性があり、戦いを避けたことを後々信長に糾弾されかねません。そこで、無謀にも、家康は信玄軍を追撃し、三方ヶ原で信玄軍と対戦します。結果は惨敗で、家康は九死に一生を得て、浜松城にたどり着きます。

 倍の軍勢を率いる信玄に、あえて野戦を挑むなど、用心深い家康なら、通常はありえない行動と考えられますが、そこまでしても、信長に気を遣ったのではないでしょうか。

 第二のものは、家康の長男である信康が信長の娘である徳姫を嫁に迎えたことに始まります。政略結婚でありながら、当初、夫婦仲はよかったとされていますが、次第に、姑である築山殿との確執があったり、夫に対する不満が高まったりしたため、徳姫は、父である信長に、夫の不行跡や姑の謀反の企みを糾弾する書状を送ってしまいます。それに対しての釈明を求めた信長に、家康は、家老である酒井忠次を信長の下に派遣します。この忠次は、信長から問いただされたことに何ら釈明らしきことをしなかったらしく、信長は、信康に腹を切らせることを、彼に命じたのでした。




 家康にとって大切な跡取りである信康を失うことは徳川家にとっての多大な損失であり、また、家康自身、親としても辛かったのにもかかわらず、信長に対して、信康をかばうことが一切できなかったことになります。

 事実、信長との同盟関係を危うくすることは、背後に敵を抱えている状態では、徳川家の存亡にかかわることだったかもしれませんが、それにしても、信長に対して気を遣いすぎていたのではないでしょうか。


5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処

 家康にとって、先々のことで、大いに心配になったことと言えば、それは金銭健康にかかわることではなかったのではないでしょうか。 



 金銭について言えば、もともと、国力のあまりない三河の地を統治するのに、お金の心配は尽きなかったのではないかと考えられます。特に、戦国の世では、軍資金として、また、家臣を養うために必要なものであり、常時から、蓄えておくことを求められているものです。家康は、お金に関する心配を前向きに解消しようとした人だと考えられます。その蓄財については、「~すべき」など、事細かに基準をつくり、それを徹底的に守り続けたようです。その基準は、食事の内容など、日常生活の細々としたことにも及んでいたようで、その行為は、天下人になっても続いていたようです。このため、それを見ている人たちからは、吝嗇、つまり、ケチだと思われていたようです。
 それと似たことは、彼の健康へのこだわりにも見られるようです。
 健康は、戦場での戦いでも必要なものですし、病気で亡くなってしまえば、天下を取ることもかないません。それで、家康は、積極的に、健康についての基準作りを行い、それを実行していったのだと考えられます。食事にも気を配り、酒もほどほどにするよう心がけます。武芸の修練も欠かさず行ったとされています。鷹狩りも、娯楽のためだけでなく、健康を維持するためのものだとされています。また、健康維持のため、薬草づくりにも、かなり熱心だったようです。



 結果的には、特に、健康への徹底的なこだわりが彼の長生きにつながり、最終的に天下取りとなることに役立ったものと考えられます。




6)教訓話をするのが好き
 家康は、主に晩年、側近くに控える御咄衆たちや譜代の家臣、また、跡継ぎの秀忠に、教訓めいた話をよくしていたようです。それを書き留めたものが、後世に説話集遺訓として残されています。

 それは、彼が、自らが経験して学んだことを人に教え説くことが好きだった人だから、なのではないでしょうか。自分の知識や経験は貴重なものであり、臣下たちにもそれを学んで、今後に役立ててほしいと考えていたと思われます。
 よく言えば、教育熱心であり、悪く言えば、多少押しつけがましい行為だったのかもしれません。

 

 家康は律義者か、狸親爺か 

 「はじめに」で述べたように、このことを理解するには、家康の生まれながらの性格と、幼少時から13年にわたる人質生活という環境で強化されてきた性格の、二つの観点から、考えていく必要があると考えます。

 もともとの彼の性格は、ものごとに対して積極的で、前向きなものだったと考えられます。人質時代、今川の臣下たちに軽視されることに対して、縁側から放尿することで抵抗を示したというエピソードから、彼の生来の反骨精神が垣間見られます。だが、すでに述べたように、長い人質生活の中で、自らを抑えるといった傾向が形成され、それが主となっていったものと考えられます。 

 つまり、人前で自らの意見を述べることは控え気味であり、行動は用心深く自重気味であり、支配するものには従順するといった行動となって表れていたと考えられます。

 ただ、その傾向は、彼を抑えつけていた人たち、つまり、義元信玄信長秀吉らのによって変化していったのではないでしょうか。家康が彼らから解き放たれることでもたらされた自由により、より自己-抑制的でないやり方で、考え、行動することができるようになっていったと考えられます。その結果、もともと彼に備わっていた才能が開花し、彼の実力が発揮されていったのでしょう。それは、彼に自信をもたらし、自らの考えに従い、より大胆に、積極的に行動するといった、生来の性格が復活していったのだと考えています。

 すでに述べたように、彼は二番手であることを好んでおり、その立場の時は、律儀従順に見えていたかもしれません。

 ただ、生来の性格は、ものごとに対する自らの正しさの基準があり、また、積極的という意味では、自らの願望を達成することにも前向きだったと考えられます。彼にとって、自らが「正しい」と考える目的を達成するためには、律儀さや実直であることは、邪魔でしかなかったのだと考えます。かりに、後年の家康に、「自分の性格を、いい性格と思うか、悪い性格と思うか」と問いかけたとしたら、たぶん、「悪い」と答えると思います。それは、彼の本心を隠すところ、悪知恵が働くところ、割に根に持つこところ、自分中心的なところなど、ではないでしょうか。


 ものごとには常に二面性があるように、性格というのも、いい面と悪い面の二面性があると考えています。狸親爺のような、性格の悪さゆえに、長年続いた天下泰平の世の礎を築くことができたと思います。ただの律儀者、正直者であったなら、たぶん、それは難しかったと思いますが、いかがでしょうか。


 家康にとって譜代家臣は家族 

 すでに述べたように、母と生き別れ、父には先立たれた家康は、さらに、人質としての苦難の生活を強いられます。

 それは、残された家臣にとっても同じことのようでした。つまり、主君である 家康(竹千代)を人質に取られ、城も奪われた家臣たちは、普段は百姓として糊口をしのぎ、戦いの時は、今川方に駆り出され、危険な戦場に立たされるといった苦難の中で生きることを強いられます。それでも、いつかは、主君を岡崎に迎えるといった忠誠心をもち続けていたようです。

 そのような同じ境遇にあった家康と譜代の松平家臣たちの間に、強く心を通わせるものがあったとしても、不思議ではないと考えます。

 もはや、家臣は単なる部下ではなく、家康にとっては家族の一員のようなものであり、家臣にとっても、それは同様だったのではないでしょうか。通常の主君と臣下の関係よりも、彼らの間の距離は近かったのではないかと考えられます。

 三河の一向一揆の際に、家臣団は敵と味方に分かれますが、敵方にあったにもかかわらず、その家臣たちは家康との直接の戦いを避けていたようです。

 また、譜代の家臣たちは、主君である家康に対して、きついことも遠慮せず意見、つまり、諫言をしていたようです。

 このような主家と家臣との関係は、かなり特異的なものであり、それは、徳川家の強さの源泉であったと考えられます。

◇「戦国武将シリーズ」の初回記事は、「性格」から見た明智光秀-なぜ本能寺の変は起こったのか- です。


【参考文献】

「徳川家康」、二木謙一、ちくま新書、1998.

「徳川家康の性格と健康法」、宮本義己(「徳川家康のすべて」、北島正元編、新人物往来社、1988.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」:志村宗生;東京図書出版、2023


 

  

 

 


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