性格、性格分析、性格類型、プーチン、小室圭、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ゴッホ、水原一平

2024年10月9日水曜日

「性格」から見たセックスレス-セックスも「人間関係」—

  はじめに 





 皆さんは、これまで、ドラマや週刊誌などで、「セックスレス」という言葉を、一度は、目にしたことがあるのではないでしょうか。

 セックスレスという言葉は、「主に夫婦間で性行為が長期間ない状態」について、ある日本の精神科医によって新たにつくられた用語です。ちなみに、レス(less)という接尾語は、名詞の後につけられることによって、「~がない」とか、「~を欠いている」いう意味を与えるものです。

 そのセックスレスという現象を「性格」と「人間関係」いう視点から解き明かそうというのが、この投稿が目指すものです。ちなみに、セックスレスには、セックスに対して消極的、あるいは、忌避的なのが、夫側の場合と、妻側の場合がありますが、ここでは、「夫」に起因するセックスレスについて説明していきます。この場合、彼らは、セックスレスを除けば、「夫」や「父親」としては、ほぼ問題がないような、普通の人たちです。

 このセックスレスという現象には、身体的-生理的な側面からの理解も必要なものですが、実は、「人間関係」という側面も大いに関連していると考えています。まず、そのことから始めてみます。


 セックスも人間関係の反映 

 セックスは、単に欲求という「生理的」な視点でのみ見られがちですが、性的行為という現象の背景にも、「人間関係」があるということを私に教えてくれたのは、精神科医の下坂幸三氏(故人)でした。

 健全な若い男性なら、通常、性的欲求があり、女性側の受け入れがあれば、パートナー間で定期的に性的行為が繰り返されると考えるのが通常です。でも、性的行為を行うことに関しては、「生理的」な観点ばかりでなく、「心理的な観点も必要になります。つまり、人が性的行為を行う場合には、その人の「気持ち」や「考え方」がセックス自体にかかわってくるはずですし、パートナー間の「関係」が、それらに影響を与えると考えられるからです。

 後に詳しく述べますが、男性のセックスレスの場合、パートナーである妻に対しのセックスは忌避的ですが、浮気相手など、「別の女性」との間には性行為は成立するという現象が見られます。それは、妻との「関係」の中にセックスレスの要因があることを表しています。


 セックスレス夫婦の特徴的な関係 

 夫」の側がセックスに回避的なセックスレス夫婦の特徴について述べてみます。

 多くの場合、妻は、ものごとについての「自らの考えや基準」をカッチリともっている人たちであり、家族に対しては、それを「強く主張」する傾向にあります。半面、相手のきつい口調に「怖れ」を抱きやすい夫は、通常、不満はあっても、それに反論するのを避ける傾向にあります。このため、両者の間で激しい「衝突」が起こる可能性は少ないのです。

 一方、セックスレスの夫とは、初対面の人には緊張しがちであり、また、多数の人たちとかかわるのを「苦手」とする人たちです。半面、妻の方は、「社交的」な人たちが多く、人とのかかわりをあまり苦にしない人たちです。だから、「夫婦」単位として、社会で生活を営んでいく上で、夫にとって、妻は大いに助かる存在な訳です

 このことから、二人がともに生活をすることは「心地よく」、「便利」なので、そのことが、その夫婦が互いに「配偶者選択」をした理由でもあります。たぶん、このような夫婦の「組み合わせ」は少なくはないはずです。


 なぜセックスレスになるのか 

 ここで、しばし、セックスの「生理的な側面に話を移します。

 セックスという行為には、多少とも、「攻撃的」な要素が含まれるものです。それは、脳の中で「性欲中枢」と「攻撃中枢」がとても近い距離にあり、それらは深い関係にあるからです。動物の生殖活動の中でも、雌をめぐって雄同士が激しく争うような場面はよく映像で目にするものです。法治国家となる以前の、人類の長い歴史の中でも、「略奪」によって婚姻関係が形作られるという事例は、少なくなかったはずです。

 そう考えると、逆に、男性側の「攻撃性」が強く抑制されているような場合、「性的欲求」、つまり、「性的興奮」が起こりづらくなり、勃起や射精といった性行為に必要な生理的変化も起きなくなる可能性があると考えられます。

 ここで、再び、夫婦関係についての話に戻ります。

 前項で述べた夫婦関係により、夫婦の間では、妻の主張や要求の方が通ってしまいがちなので、生活上は、妻の方が「上位」となり、妻が家庭を「仕切る」ような存在となりがちです。夫の方は、そのことに抵抗はしますが、結局は、妻の「掌(テノヒラ)」で転がされるような存在となってしまいます。

 そのような「夫」は、性的場面において、「妻」の前では無意識的に委縮し、攻撃性が強く抑制されてしまう訳で、心理的にも、生理的にも、性的興奮が起きにくい状態になると考えます。


 夫婦関係に起こる悪循環 

 妻の前で、しかも、妻の期待に反してセックスができないということは、「夫」にとっては、「ダメ男」の烙印を押され、妻に責められることを意味しています。もともと自信のない「夫」は、人によく見られたいと思う反面、人に「だめな人と見られることを怖れる人たちです。セックスをしようとすることは、再び、妻の前で「ダメ」な自分をさらすだけでなく、妻の「怒り」に直面されられる可能性があるので、夫はセックスに回避的となる訳です。それに対して、健全な性的欲求のある妻の方は、当然、夫に対して「不満」を抱くはずです。 




 その不満をぶちまけられた夫は、妻の怒りに怖れを抱き、さらに、妻からのセックスの要求に対して回避的となり、その上、性行為自体もうまくいかなくなるのではないでしょうか。

 つまり、妻が「不満」を言えば言うほど、夫は妻のセックス要求に対して「逃げる」ようになり、そうなれば、妻の「不満」はさらに募る訳です。上記の図のように、悪循環というエスカレーションが起こる可能性があります。


 「関係」が変われば、セックスは可能 

 すでに述べたように、妻に対しては、セックスを避けたり、セックスが「不能」となったりする夫も、浮気や風俗の場合のように、相手が「妻」ではない場合には、普通にセックスができることがあります。

 相手が変わるということは、相手との「関係」が変わるということです。つまり、相手は妻のように優位的な態度ではなく、少なくとも対等の関係で接してくるからです。


 セックスレスは治るのか 

 理論上、夫婦の「関係」が変われば、セックスレスは治る訳です。

 ただ、すでに述べたような、両者のもつ「性格」や「気質」は、たぶん、生まれ持ったものなので、簡単に変わるものではないでしょう。また、長年、そのような夫婦の「関係」を互いに築き上げてきた訳なので、その関係も変わりづらいものとなっていると考えます。

 治る可能性があるとすれば、少なくとも、性行為中の夫婦の「関係」が、一時的にも変わるような場合ではないでしょうか。それは、互いの「役割(role)」を一時的に変えるような「演技(play)」ができた時だと考えます。互いの努力で、「演技」が完ぺきにできたならば、うまくいく可能性があるのではないでしょうか。「ダメもと」で、試してみる価値はあると思いますが‥‥‥。



志村宗生:「ことばのクスリ—薬に代わるこころのケア—」










 















2024年9月14日土曜日

「性格」から見た斎藤元彦・兵庫県知事—一連の行動を読み解く-


(「読売オンライン」から引用)


 はじめに 

 現在、毎日、マスコミを賑わせている話題が、兵庫県知事である斎藤元彦氏の「パワハラ疑惑」や、「内部告発」への対処の不適切さ、また、県会議員からの辞任要求に応じる態度が見られないことなどであります。

 それに対して、マスコミ等では、斎藤氏の一連の行動を、どのように理解してよいのかについて、さまざまな意見が飛び交っております。それは、彼の行動について、納得できる理解がされていないことを反映しているように思えます。

 そこで、今回、彼の「性格」を読み解く説くことで、斎藤氏の行動の背景にあるものを明らかにしようと考えています。


 斎藤元彦氏の性格傾向 

1)潜在的にある尊大さ
2)外部の世界よりも自らの世界が優先
3)気の短さ
4)頑固さ
5)まわりが見えてない
6)考え方は合理的、理性的

 これから、各項目について、説明していきたいと思います。

1)潜在的にある尊大さ

 彼の中には、自分完全な人間」であり、その自分はまわりを思うようにコントロールできる」といった考え方が本来あると考えています。それが、県庁の最高権力者になった時、いわゆる、「パワハラ」めいた行動として現わされてきたと考えられます。
 ただ、彼は合理的・理性的な考えの持ち主ですから、自分の立場というものはよく理解しており、その尊大さをまわりに示してはいけない場合があるということもよく理解していたと思います。だから、自分が「仕える立場」にいる場合には、極めて腰の低い、謙虚な態度を取り続けていたと考えます。


2)外部の世界よりも自分の世界が優先

 斎藤氏の関心は、彼のまわりの事柄よりも、彼の内部を向いていると考えます。言わば、彼は、彼自身の世界の中を生きているのです。しかも、そのことに強いこだわりを示すと考えられます。
 彼にとって重要なのは、彼が成し遂げてきた輝かしい県政の成果であり、彼の実績であり、彼が理想とする県政なのです。それが彼の見ている世界なのです。彼にとっては、まわりの批判や、彼が引き起こした犠牲者のことなどは、彼の視点の外の出来事でしかないかと考えられます。
 だから、彼は、自殺した県民部長に対してでなく、理想の県政を達成する目前で、それを台無しにしかけている「自分」に対して、「無念の涙」を流したのだとと思います。


3)気の短さ

 県職員のアンケートの中で、斎藤知事に対して、「瞬間湯沸かし器」というネーミングがなされていたという記載がありました。
 彼のこの気の短さは、彼本来のものだと考えられます。たぶん、以前から、何かを食べたり、買ったりするために、「列に並ぶ」といったことはしない人だったと思います。
 この気の短さが「癇癪」として表される対象は、彼が怒りを表しても「安全な人」たちだけに限られると思います。安全な人たちとは、自分の部下である、県職員の人たちです。

 おそらく、それは、県議会議員や「維新」の人たちには、絶対に見せない態度だと思います。彼には、気が小さいところもあって、彼にとって、相手に怒りを見せたことで”怒り”や”反感”を買うようなことは絶対に避けたいことだから、ではないでしょうか


4)頑固さ

 すでに述べたように、自分の外部の事柄よりも、自分の「世界」の事柄に対して関心は向けられており、それには、強いこだわりを見せます。つまり、その事柄に対しては、非常に頑固で、まわりの「説得」に応じることはないと考えます。
 実際、多数の県会議員の辞職勧告に従うつもりはないようですし、自分を知事に押してくれた「維新」の人たちの「やり直し」退陣の説得も無駄だと思われます。このままでは、不信任決議案が可決された場合、議会解散に持ち込んでも、知事をやめるつもりはないのではないでしょうか。
 この知事の「頑固さ」に一番頭を悩ませているのは、「維新」の人たちでしょう。この知事を担ぎ上げたのも、これまで彼をかばおうとしていたのも、「維新」でしたから、彼が知事を続けている間、「維新」の評判は下がるばかりだからです。もっと早く気づいて手を打たなかった「維新」の、「身から出た錆」でもあります。


5)まわりが見えてない

 先ほど述べましたが、記者会見の時、いつもはきわめて冷静な彼が、涙を流す場面がありました。

 後日、部下を自殺に追い込んだ「自責の念」による涙ではなかったのかと、記者が質問しますが、彼の回答に全員唖然としたのではないのでしょうか。
 先ほど述べたように、彼は「彼の中の世界」を生きており、まわりのことには関心が薄いと考えられます。


6)考え方は合理的、理性的

 知事の行動を見ている人たちの中には、「彼の行動は常軌を逸している」、「彼の考えは異常だ」と考えている人もいるかもしれません。

 しかし、基本的には、元来の彼は極めて合理的で、理性的な考えをする人だと考えます。記者会見の中での、彼の冷静で、「一応」筋の通った答弁の中に、それは見られると思います。



 彼のパラハラは、典型的なものではない 

 通常の「パワハラ」と呼ばれる行動の特徴は、パワハラの対象者に対して”いじめ”めいた、”陰湿さ”を感じるものです。また、パワハラを行う人は、日によって気分が変わりやすいといった特徴があります。

 それに対して、斎藤知事の「パワハラ」は「癇癪」に似たもので、怒りはあっても一時的なもので、相手を「虐め抜く」といった性質のものではなかったのではないでしょうか。前に述べたように、彼は気が短いので、彼の思い通りにならない状況で、怒りを示しても「安全」と思われる県職員に対しての「癇癪」だと考えます。

 でも、知事の逆鱗に触れた職員の立場からすれば、それを「パワハラ」と感じたとしても仕方ないと思います。


 なぜ元県民部長を追い詰めたのか 

 極めて理性的な考えをする斎藤知事が、元県民部長の「告発」に対して、県の内部調査結果だけで早急に彼を処分をしたのか、疑問が残るところです。

 それは、自分を「完全な人間だ」と考えている斎藤知事に対して、部下である元県民部長が「彼は不完全な人間だ」と公に訴えたことで、彼の自負心や威信を真っ向から傷つける結果になったからだと考えます。その彼にとって、「完全さ」を取り戻すためには、それを傷つけた相手を徹底的につぶすことが必要だったのではないでしょうか。それが、彼の性急で、理性的ではなかった行動の理由だと考えます。


「性格と精神疾患」:志村宗生;金剛出版、2015




 
  



2024年3月30日土曜日

「性格」から見た水原一平さん-その「強運」と「失敗」-

 はじめに  

 水原氏は公人でもスターでもなく、言わば、一般人です。ただ、大谷翔平の通訳を務め、さらに、今回、大谷を巻き込む不祥事が明らかになったことで、今や世界的な有名人となっています。

 その彼の行動や人柄について、マスコミやネットでは、やや混乱した評価がなされているように感じます。そこで、新しい性格類型を通して、彼の実像について明らかにすることで、今回の不祥事も含め、すべてを読み解いていきたいとと考えております。

 


(「Madenokoujiのブログ」より借用)


 水原一平氏の性格特性 

1)対人緊張が強く、集団の中に溶け込むことが苦手
2)自分をよく見せようとする
3)行き詰っても、まわりに相談をしない
4)自分に自信がない
5)独りの「楽しみ」を好む
6)行き詰ると、その場を回避する



 具体的な性格についての解説 

1)対人緊張が強く、また、集団の中に溶け込むことが苦手

 おそらく、水原氏は、特に、初対面の人には、ひどく緊張する性格だと考えられます。

 若いころ、彼は日本酒メーカーで営業職をしていたことがあります。その時、彼は、「ガンガンお客さんに押していくようなタイプ」でも、「どんどん切り込んでいくタイプ」でもなく、「一歩下がって控えめ」だったとのことです。

 「控えめ」だったというのは、おそらく、初対面での対人緊張が強かったからなのではないでしょうか。したがって、営業を行う際、要領よく相手に取り入り、商品を売り込むようなことは、得意ではなかったと考えられます。また、強く「押して」相手に拒否されるのを恐れ、売込みには消極的だったのではなかったのではないでしょうか。なので、彼にとって、「営業職」は、まったくの不向きな職種だったと思われます。

 その点、「通訳」は、翻訳をすることで、関係者間を「取り次ぐ」だけの仕事であり、コミュニケーション能力が高ければ、水原氏にとって、もっとも適した職種だった可能性があります。


2)友人が少ない

 まわりに対して積極的にかかわるのが苦手な性格なので、水原氏には、「友人」と言えるよう人は、少なかったと思われます。たぶん、同じ趣味をもっているような人で、しかも、積極的に他人に働きかけるような人でないと、親しくはなれなかったと考えられます。

 また、4)で述べるように、自らを進んで開示するような性格ではないので、「親友」と呼べるような人は、皆無と思われます。


3)自分をよく見せようとする

 エンゼルスに大谷とともに在籍していた2017年、MLBの公式ガイドブックには水原氏の経歴について『カリフォルニア大学リバーサイド校を卒業と表記されていた」とのことです。だが、大学側には、その記録はないとのことで、彼には「学歴詐称」の疑惑がもたれています。

 また、2010年、岡島秀樹投手が所属していたボストン・レッドソックスに通訳として働いていたという経歴についても、その事実はなく、それについても詐称疑惑がもたれています。



 これは、彼には、自分を実像よりも「よく見せたいといった傾向があったからだと考えています。関西風で言えば、「ええ格好しい」の人ではないでしょうか。かりに、彼に「虚言癖」があれば、長年、彼と一緒にいた大谷氏は、それを見破り、彼に信頼を寄せることはなかったと思います。基本的に、水原氏は「真面目」な性格であったと考えられます。


4)行き詰っても、まわりに相談をしない

 今回の騒動の件で明らかになったのは、その当事者の一人である大谷翔平氏にとっても、水原氏の不祥事は、「晴天の霹靂」だったようです。ですから、それ以外の人たちも、同じだったと考えられます。多分、奥さんや親にも、本当のことは話してはいなかったのではないでしょうか。

 彼には、自分の「ダメなところ」を人に曝け出すことができない性格だったと考えられます。なので、行き詰っても、誰にも、相談することはなかったのではないでしょうか。だから、このような大騒動になるまで、まわりが、彼のギャンブル依存のことも、借金のことも、まったく知らなかったとしても不思議ではないと考えます。


5)独りで、楽しむことを好む

 社会で働く時、人とかかわりをもつことは避けられない訳ですが、元来、対人緊張の強い水原氏にとって、それが精神的なストレスとなっていたものと考えられます。



 したがって、プライベートで自由な時間は、なるべく人との接触がなく、「独り」で楽しめるような趣味や楽しみが、ストレス解消の手段となっていた可能性があります。

 水原氏は、若い頃、一時、カジノのディーラー養成所に通っていたとのことです。そこから、ギャンブルにも興味をもった可能性がある訳で、それが彼の楽しみとなり、ストレス解消のため、「独り」で、密かにギャンブルを楽しんでいたと考えられます。


6)行き詰ると、その場を回避する

 「高校卒業後の10年間の、水原氏の経歴がはっきりしない」といった、マスコミの報道があります。それは、たぶん、比較的短期間で職を転々としていたためではないでしょうか。マスコミによれば、「いろいろな業種に挑戦はしていたみたいですね」と、知人は語っていたとのことです。

 そうなったのは、集団の中で人とかかわるのが苦手で、職場の同僚の中に溶け込めず、しかも、何かに行き詰ると、訳も告げず、すぐに職場を辞めてしまったからだと考えられます。

 また、不祥事の発覚前、スポーツ専門テレビのインタビューの中で、「大谷選手に事情を説明し、彼は借金の肩代わりに同意した」と答えていますが、これも、窮地に追い込まれ、一時的に「言い逃れる」ためのものだったと考えられます。


 大谷との相性 

 大谷と水原氏との相性は「よかった😃」と思います。




 なぜなら、大谷にはものごとに対する自分なりの「考え方」や「基準」というものがあり、身近な人たちには、遠慮せず、それを主張すると考えられます。この時、水原氏は、大谷と違った意見を述べることで、敢えて事を構えることは避けたい性格なので、大谷の意見に同調していたのではないでしょうか。そのため、両者の間で軋轢や衝突は、まず起きないと考えられます。

 また、水原氏は、彼にできる範囲のことは「真面目」に仕事をこなし、多忙な大谷をサポートしていたと思われます。

 もちろん、それまで、社会ではうまくいってなかった水原氏に対して、金銭的にも、社会的にも、大谷は、彼をサポートしていた訳です。




 水原一平の「強運」と「失敗」 

 それまで、社会的にはうまくいかなかった水原氏にとって、プロ野球界での「通訳」という仕事に出会えたことは、とてもラッキーなことだったと考えられます。さらに、日本ハム時代に大谷翔平と出会い、2018年、彼のエンジェルス移籍に伴い、専属通訳としてエンジェルス球団に雇用されるといったことは、水原氏にとって、とても幸運なチャンスだったと考えられます。

 マスコミによれば、その時、彼の父親は、「一平はすごく強運なんだ」と知人に語ったとされています。

 



 たぶん、水原氏にとって、大谷翔平は、大海を悠々と泳ぐ「ジンベイザメ」のような大きな存在であり、彼は、その大谷にくっ付く「コバンザメ」であったのではないでしょうか。つまり、彼にくっ付いてさえいれば、彼の評価も上がり、安泰な生活を保証されたようなものだったと考えられます。

 その彼にとっての落とし穴は、ストレスを解消するための、密かな楽しみであった「ギャンブル」だった訳です。違法とばくの胴元である人物との出会いが躓き(ツマズキ)の始まりだったかもしれません。さらに、2021年、大谷が大リーグで大活躍をするようになるに伴い、水原氏はより多くの人たちと接触せざるをえなくなったことで、さらに、精神的なストレスは高まり、そのため、ギャンブルへのめり込んでいった可能性があります。また、ギャンブルで負けが込んでいくに従い、さらにギャンブルにはまっていくことなったのではないでしょうか。

 大事(オオゴト)になる前に、誰かに相談できていさえすれば、今日のような事態には至らなかったかもしれません。だが、すでに、述べたように、友人は少なく、また、行き詰っても相談ができないという性格傾向があるので、雪だるま式に、事態が悪化していったものと考えられます。


 今後の懸念 

 すでに述べたように、行き詰った時に、水原氏がとる行動は、その場から「回避」するというものです。

 すでに職を失い、また、彼の不祥事が大事になったことで、たぶん、彼は、アメリカにも、日本にも、居場所がなくなる可能性があります。

 家族が彼の「逃げ場」になってくれればいいのですが、かりに、それもなくなった場合、水原氏には、どこにも逃げる場所がなくなる可能性があります。それは、彼にとっては危機的なことかもしれません。

 「身から出た錆」ではありますが、そうならないことを、ただ祈るばかりです。



【参考文献】

 

   







 水原一平の幸運と悲劇 

 

 

 

 








2024年2月13日火曜日

「性格」から見た画家・ゴッホ-苦難の人生から生まれた名画たち-

 はじめに  

 本邦では、「ひまわり(向日葵)」を描いた絵画でよく知られている、フィンセント・ファン・ゴッホを、今回は取り上げてみます。

 彼は、まさに「波乱に満ちた、苦難の人生」を送った人としても知られている画家です。しかも、彼の絵画が一般に受け入れられるようになったのは、彼が亡くなった後のことでした。彼の死因は銃創によるものですが、その原因については自殺説、事故説など、いまなお、謎とされています。

 彼の人生が波乱に満ちたものになったのは、彼の「運命」だけでなく、彼の「性格(気質)」が大いにかかわっているとされています。その特性について詳しく述べてみます。ちなみに、次の章で、彼の性格傾向を箇条書きにしてみました。

 本論では、彼の性格について解説した後、人々に鮮烈な印象を与える作品が生まれる上で、彼の性格が大きな役割を果たしているかもしれないことについてコメントをしたいと思います。



 ゴッホの性格特性 


1)傷つきやすさ、孤独と怒り
2)友人がいない
3)独り善がり
4)独りに耐えられない
5)被害妄想的な傾向
6)狂熱的な没頭


 

 ゴッホの具体的な性格傾向 

1)傷つきやすさ、孤独と怒り

 ゴッホは、幼少時から、「皆に拒否されている」、「誰からも相手にされてない」、「自分のやりたいことを邪魔されている」といった「感覚」をもち続けていた人だと考えられます。
 彼には生来の「過敏性」があり、まわりの人たちの些細なネガティブな言動や態度に敏感で、それに深く傷つき、結果、人との交流を避けるようになったようです。まさに、「ガラス細工」のような性格と言えます。学友は、彼を「よそよそしい」「内気」「他の子との関係をもたない」と評していたとのことです。

 彼の傷つきやすさは、時に、相手に対する「怒り」となって表されることもありました。ゴッホには「わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり」とされています。彼の家族は、彼のことを「うるさく」「けんか腰であった述べています。


2)友人がいない

 そのような人柄なので、当然、まわりとの人間関係がうまくいかず、まわりから「孤立」したり、まわりとの「衝突」を繰り返したりしています。結果、彼のまわりには、親友はもちろんのこと、長い間、彼との親交を続けたような友人は一人もいません。そんなゴッホが親しく付き合うことができたのは、「(動物や植物などの)自然」や、「(子どものような)単純な心の人だけだったようです。

 そのような中で、唯一のゴッホの親友と言えるのは、弟のテオです。彼は、兄弟の中で唯一ゴッホとは気が合い、また、兄のよさも欠点も理解していたと考えられます。また、ゴッホのそばにいて、彼の画家や思想家としての優れた資質や才能を認めていたのではないでしょうか。成人後は、兄から金銭を要求され続けたり、パリで同居していた時には、ゴッホの不機嫌さや独善的な長話に苦しめられたりしていても、兄との交流を保ち続けます。そのテオの支えがなければ、偉大なる画家ゴッホの誕生はなかったとされています。



3)独り善がり

 ゴッホには、自分だけが「正しい」、自分が「一番」と考え、より「一般的」な、より「常識的」な考えを受け容れようとはしない、独善的な傾向があったと考えられます。弟テオは兄のことを、「世の中の決まりごとという感覚が欠落している」と述べてます。また、ゴッホは、相手の立場に立ったものの見方や考え方が、まるでできていません。「気配り」や「気遣い」といったものは、それが必要なものだとコッホは、まるで考えていなかったように思えます。
 そのことは、彼の求愛行動にも表されています。思いを寄せる女性に対して、相手の気持ちを考慮することなく、自分の思いや考えを一方的に語り、相手を説き伏せようともします。

 画家の仲間との、絵画についての話の場でも、ゴッホは、一方的に自分の考えをまくしたてたり、相手の考えに多少でも納得がいかないと、すぐに議論を挑んだりしています。そのことで辟易させられた相手は、すべて、彼を避けるようになっていったようです。


4)独りに耐えられない

 独り善がりで、かつ、傷つきやすい性格のため、まわりの人たちとの人間関係はほぼうまくいかず、成人後のゴッホは、そのほとんどを「孤独」で送ることになります。しかし、困ったことに、彼には、独りでいることも難しいことのように思われます。つまり、孤独による「寂しさ」、「退屈さ(つまらなさ)」、「心細さ」に耐えられず、また、うまく孤独を紛らすこともできないようです。このため、彼は人との接触を渇望し、自分を理解してくれる人を追い求めます。

 先に述べたように、ゴッホは片思いの女性に「独り善がり」に求愛をするのですが、当然、そのような行動で相手から好意をもたれるはずもなく、彼は失恋をします。その時、その孤独に耐えられないゴッホは、それを埋める役割を「娼婦」に求めようとします。
 唯一の友人と言っていい弟のテオと離れて間もないのにもかかわらず、早速「君がいないと寂しい」という手紙を送り続けています。
 アルルの地で、一人、絵画の制作を始めたゴッホは、仲間を求め、アルルに来るよう、ゴーギャンを盛んに説得します。画商であったテオの勧めもあり、ゴーギャンは、アルルでゴッホとの共同生活を始めます。ただ、さすがのゴーギャンも、ゴッホの独善性や不機嫌さに耐えられず、ゴッホのもとを離れようとします。そのことと、唯一頼っていたテオの結婚がきっかけで、有名な「耳切り事件」が起こったとされています。


5)被害妄想的な傾向

 ゴッホは、対人関係がうまくいかず、人がみな彼を避けるようになった時、そうなったのは、「誰かが策略を仕掛けている」「誰かと共謀している」と考えたり、アルルの人たちとの関係がうまくいかなくなっ時には、「あちこちで毒を盛られている」と、被害的、妄想的となる傾向が見られています。
 

6)狂熱的な没頭

 ゴッホが父方の叔父の商会に就職し、ロンドンに赴任した時、ある女性に思いを寄せます。ただ、彼の思いが相手に届かず、失恋に終わった時、彼は失意のあまりひどくふさぎ込みます。その後、彼は仕事を辞め、突如、宗教家となるべく活動を始め、それに没頭します。おそらくは、失恋による痛手や孤独に耐えられず、一転、世俗を離れ、極端に禁欲的な生き方をしようとしたのだと考えられます。その活動は、貧者と同じ生活をしたり、自分のものをすべて彼らに分け与えたりした、極端なものであり、結局、伝道は行き詰りを見せます。

 絵画に対する熱中も、狂熱的なもので、まともに食事もせず、ほとんど寝ないまま、凄まじい勢いで絵を描き続けるといった行動もたびたび見られます。その傾向は、アルルで活動するようになってからは顕著でした。

 これらの狂熱的な活動は、その理由の一つとして、「孤独」がもたらす苦痛を多少とも和らげるために行われたと考えられます。つまり、何かに没頭している時だけは、独りぼっちであることを感じずにいられたからなのです。


 ゴッホの性格が偉大な芸術を誕生させた 





 まず
第一に、ゴッホの「独り善がり」な性格が、彼の絵画がきわめて「個性的」、「独創的」であることにつながっている可能性があると考えています。つまり、絵画の世界でも、まわりの画家を模倣したり、特定の流派の画風に合わせたり、他におもねるようなことを一切しなかったのではないでしょうか。また、絵を見る人に「気を遣う」ことも全くせず、あくまで自分流を「独り善がり」に貫いていったと考えられます。ひたすら、ただ独りで、「未踏の道」を歩き続けた人だと思います。その結果、見るものに、きわめて斬新で、鮮烈な印象を与えるような、新しい絵画の世界を切り開くことができたのではないでしょうか。

 さらに、すでに述べたように、ゴッホの傷つきやすさや独り善がりなどの生得的な性格が、まわりとの人間関係を損ない、彼の社会生活を困難なものにさせてきました。

 経済的に困窮し、また、自分の家族も持てず、さらに、まわりの人たちからは、「社会に適合できない人」といった烙印を押されたゴッホにとって、画家として生計を立てること、絵画を通して「人に必要とされる人間」になることが、彼の唯一の希望(ノゾミ)であったようです。今流に言えば、それがゴッホにとっての「リベンジ」であった訳です。

 また、常に孤独にさいなまれたゴッホにとって、絵の世界に没頭している時のみが、その苦痛から逃れ、かつ、高揚感を得られる時だったのではないでしょうか。

 このように、自らの性格ゆえに、そのような生き方を選らばざるをえなかった訳ですが、それでも、そのような苦難の途を「全身全霊」で歩み続けたことが、絵画に対する優れた資質と相まって、ゴッホ偉大な画家にまで上り詰めることができた理由だったのではなかったのかと考えています。

 そんなゴッホが、かりに、運よく、”普通の人”として、「穏やかな生活」を送ることができていたならば、どうだったでしょうか? おそらく、彼の名画の数々がこの世に生まれることはなかったのではないでしょうか。 


 

参考文献

1)「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出」、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル、1914.(林卓行 監訳、東京書籍、2020.)

2)「ファン・ゴッホの生涯」  (上、下)スティーヴン・ネイフ他、(松田和也訳、 国書刊行会 2016.)

3)「ゴッホの手紙」、小林秀雄、新潮社、2020.

「ことばのクスリ」、志村宗生、東京図書出版、2023

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015. 



 

2022年12月21日水曜日

「性格」から見た徳川家康-律儀者か、狸親爺か-

 はじめに 

 今回は、戦国武将シリーズの最後に、徳川家康を取り上げてみました。

 ご存知のように、彼は、江戸に幕府を開き、265年もの間の、太平の世の礎(イシズエ)を築いた人です。ちなみに、徳川家康は、来年、某局の大河ドラマの主人公になるようです。 

 今回も、新しい性格類型を通して、彼の性格から見えてくる徳川家康の人となりを探っていきたいと思います。


(日光東照宮所蔵)


 ところで、家康については、律儀我慢強いといった評価がある半面、狸親爺に代表されるような、腹黒い利己的といった評価があります。
 それについては、彼の生得的な性格と、生育環境のために形作られた性格といった、二つの観点から、読み解いていきたいと思います。
 彼の生得的な性格とは、前向きで、冒険を好み、ものごとへの考えがしっかりあり、目的を達成することに意欲的なものだったと、考えています。
 けれど、幼少時期からの13年間の人質生活により、自らの考えや行動を自己規制する性格傾向が形成されたのではないか、と考えています。
 そして、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、今川家の支配から解放された後、次第に、生来の性格の方が優勢となっていったのではないかと考えました
 彼の性格傾向の特徴を具体的に述べる中で、それを明らかにしていきたいと思います。

 


 家康の性格の特徴 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向
2)劣等感が強い
3)二番手の位置を好む
4)にらまれないよう気を遣う
5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処
6)教訓話しが好き

 各項目の説明 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向

 家康、特に、人生前半の家康は、自らの考えを表出したり、自らのやり方を実行したりすることを自己抑制するといった傾向が強かったと考えています。なので、意見を求められるような場合でも、彼はかなり控えめだったと考えられます。また、行動の面でも、何事にも用心深く自重する傾向が強く、また、彼の上に立つ人に対しては従順であったのだと考えられます。

 その理由は、" 苦難 " の連続とも言える彼の生い立ちに関係すると考えています。なので、それについて少しお話します。



(現在の岡崎城)


 家康は、三河の岡崎城城主である松平広忠の長男として、1942年に誕生します。ところが、母である於大の実家が敵方についたことで、家康(当時は、竹千代)が3歳の時、父広忠は於大を離別します。つまり、家康は3歳で実家に戻った母親とは別れ別れとなる訳です。その後、父の広忠が今川義元に従属せざるを得ない立場にあったため、当時、6歳であった家康は人質として義元の居城のある駿府に送られることとなり、さらに、父とも離されることになります。

 でも、その途中で、竹千代は敵方である織田の手に渡り、織田信秀の人質となってしまいます。信秀は、人質をたてに広忠に寝返りを要求しますが、広忠はそれを拒ばみます。幸いにも、そのことで竹千代は殺されることもなかったのですが、尾張での2年間の人質生活を強いられることになります。さらに、その間に、父の広忠が臣下に殺されるという、さらなる不幸が起こり、父の居城であった岡崎城は、今川方に没収されることとなります。



 その後、信秀と義元の間での人質交換により、家康は駿府に送られ、そこで、19歳となるまで、11年間の人質生活を送ります。人質といった立場ゆえに、行動は制限され、常に監視され、義元の命令にはすべて従わざるをえないといった環境下で、ひたすら忍従を強いられる生活を送ったのではないかと考えられます。また、義元の家臣たちにも軽く見られたり、侮られたりといった、屈辱的な出来事もあったようです。不用意なことをすると、まわりにバッシングされるようなことがあり、そのため、何事にも用心深くなったのではないかと考えています。

 このように、自由の少ない抑圧的な環境に身を置いていたため、「自らで自らを抑えてしまう」といった性格傾向が形作られたものと考えられます。つまり、積極的な行動や主張を控え、すべてに用心深く自重気味に行動することを自動的に選択するようになったと考えられます。当然、自由な感情表出も、自ら抑え込むようになっていったと考えられます。

 ただ、自己抑制的であったことが、プラスに働いた面もあると考えられます。それは、まわりの意見を取り入れようとする志向性が生じたということです。つまり、自分の考えが正しいと考え、それを推し進めようとするのではなく、まずは相手の話を訊き、相手から学ぼうといった姿勢につながっていったのではないでしょうか。


2)劣等感があった

 あくまで、新しい性格類型からの類推ですが、彼の生来の性格として、家康には、自らを人と比較する傾向があったのではないかと考えられます。その比較する対象が自分より優れた人たちなので、その結果、多少とも、劣等感を抱く傾向があったと考えられます。

 ただ、幼少時から後年に至るまで、彼のそばには、今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉といった、錚々たる武将が常にいました。彼らの能力、知識、経験などに対して「自分は及ばない」 と感じていたとしても不思議ではないと考えます。そのため、彼の劣等感はより強められたかもしれません。

 この劣等感が、彼に自信のなさをもたらしていた可能性があります。こころざしや野心があったとしても、彼らがいる間は、「自分にはできる」といった自信をもつことができなかったのではないかと考えられます


3)二番手の位置を好む

 すべてにあまり自信が持てず、抑制的にふるまうといった彼の性格傾向からは、彼にとって頂点に立つというよりも、トップの人のすぐ下の位置にいて、トップを支えるという立ち位置の方がに合っていたものと考えられます。また、マラソンで、風による抵抗を避けるためにトップランナーの後ろにつくのと同じように、二番手の方が体力や精神の消耗が少なかったのではないでしょうか。さらに、家康は、尊大な態度を取ったり、栄耀栄華を味わったりすることへの願望が乏しい人だと考えられます。それらがトップの下の立場を長く続けられた理由かもしれません。事実、義元、信長、秀吉の下で、二番手として、ひたすらトップを支え続けており、その間は、反逆を企てる素振りを、まったく見せてはいません。

 ただ、家康の生来の性格は、必ずしも、律儀で、誠実で、従順な性格では決してなかったと考えています

 彼は、二番手としてトップを支えながらも、二番手に許された自由を利用しながら、実績を積み、着々と国力を蓄えていったと考えられます。それらが、それなりの自信を家康にもたらしていたのではないでしょうか。しかも、単に一国の大名となることを目標としていたのではないと思います。強い野心や欲望ではなかったでしょうが、それが実現可能なものであれば、自らの手で天下を治めるといった夢を持ち続けていた人だと考えます。そうでなければ、先人たちを踏み台として天下を取るようなことは、到底できなかったと思います。


4)にらまれないよう気を遣う

 家康には、もともとまわりに気を遣う傾向はあったと考えています。その上、長年、"人質 "という立場にあり、義元やその家臣たちににらまれるということは、少しでも間違えれば、死を意味することでもあるで、彼らに嫌われないよう、極度に気を遣うという傾向がさらに強化されていったと考えられます。

 この傾向は、信長に対して顕著だったと考えられます。それについて、以下の二つの出来事について説明をします。

 第一のものは、武田信玄が上洛のため、精鋭二万余千の大軍を引き連れ、家康のいる遠江に進軍してきた時のことです。家康方は信長の援軍を加えても一万一千たらずで、当初、彼は浜松城に籠城して戦うことを決めます。ところが、信玄は浜松城を素通りし、西に進軍を始めます。このままでは、信長が窮地に追い込まれる可能性があり、戦いを避けたことを後々信長に糾弾されかねません。そこで、無謀にも、家康は信玄軍を追撃し、三方ヶ原で信玄軍と対戦します。結果は惨敗で、家康は九死に一生を得て、浜松城にたどり着きます。

 倍の軍勢を率いる信玄に、あえて野戦を挑むなど、用心深い家康なら、通常はありえない行動と考えられますが、そこまでしても、信長に気を遣ったのではないでしょうか。

 第二のものは、家康の長男である信康が信長の娘である徳姫を嫁に迎えたことに始まります。政略結婚でありながら、当初、夫婦仲はよかったとされていますが、次第に、姑である築山殿との確執があったり、夫に対する不満が高まったりしたため、徳姫は、父である信長に、夫の不行跡や姑の謀反の企みを糾弾する書状を送ってしまいます。それに対しての釈明を求めた信長に、家康は、家老である酒井忠次を信長の下に派遣します。この忠次は、信長から問いただされたことに何ら釈明らしきことをしなかったらしく、信長は、信康に腹を切らせることを、彼に命じたのでした。




 家康にとって大切な跡取りである信康を失うことは徳川家にとっての多大な損失であり、また、家康自身、親としても辛かったのにもかかわらず、信長に対して、信康をかばうことが一切できなかったことになります。

 事実、信長との同盟関係を危うくすることは、背後に敵を抱えている状態では、徳川家の存亡にかかわることだったかもしれませんが、それにしても、信長に対して気を遣いすぎていたのではないでしょうか。


5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処

 家康にとって、先々のことで、大いに心配になったことと言えば、それは金銭健康にかかわることではなかったのではないでしょうか。 



 金銭について言えば、もともと、国力のあまりない三河の地を統治するのに、お金の心配は尽きなかったのではないかと考えられます。特に、戦国の世では、軍資金として、また、家臣を養うために必要なものであり、常時から、蓄えておくことを求められているものです。家康は、お金に関する心配を前向きに解消しようとした人だと考えられます。その蓄財については、「~すべき」など、事細かに基準をつくり、それを徹底的に守り続けたようです。その基準は、食事の内容など、日常生活の細々としたことにも及んでいたようで、その行為は、天下人になっても続いていたようです。このため、それを見ている人たちからは、吝嗇、つまり、ケチだと思われていたようです。
 それと似たことは、彼の健康へのこだわりにも見られるようです。
 健康は、戦場での戦いでも必要なものですし、病気で亡くなってしまえば、天下を取ることもかないません。それで、家康は、積極的に、健康についての基準作りを行い、それを実行していったのだと考えられます。食事にも気を配り、酒もほどほどにするよう心がけます。武芸の修練も欠かさず行ったとされています。鷹狩りも、娯楽のためだけでなく、健康を維持するためのものだとされています。また、健康維持のため、薬草づくりにも、かなり熱心だったようです。



 結果的には、特に、健康への徹底的なこだわりが彼の長生きにつながり、最終的に天下取りとなることに役立ったものと考えられます。




6)教訓話をするのが好き
 家康は、主に晩年、側近くに控える御咄衆たちや譜代の家臣、また、跡継ぎの秀忠に、教訓めいた話をよくしていたようです。それを書き留めたものが、後世に説話集遺訓として残されています。

 それは、彼が、自らが経験して学んだことを人に教え説くことが好きだった人だから、なのではないでしょうか。自分の知識や経験は貴重なものであり、臣下たちにもそれを学んで、今後に役立ててほしいと考えていたと思われます。
 よく言えば、教育熱心であり、悪く言えば、多少押しつけがましい行為だったのかもしれません。

 

 家康は律義者か、狸親爺か 

 「はじめに」で述べたように、このことを理解するには、家康の生まれながらの性格と、幼少時から13年にわたる人質生活という環境で強化されてきた性格の、二つの観点から、考えていく必要があると考えます。

 もともとの彼の性格は、ものごとに対して積極的で、前向きなものだったと考えられます。人質時代、今川の臣下たちに軽視されることに対して、縁側から放尿することで抵抗を示したというエピソードから、彼の生来の反骨精神が垣間見られます。だが、すでに述べたように、長い人質生活の中で、自らを抑えるといった傾向が形成され、それが主となっていったものと考えられます。 

 つまり、人前で自らの意見を述べることは控え気味であり、行動は用心深く自重気味であり、支配するものには従順するといった行動となって表れていたと考えられます。

 ただ、その傾向は、彼を抑えつけていた人たち、つまり、義元信玄信長秀吉らのによって変化していったのではないでしょうか。家康が彼らから解き放たれることでもたらされた自由により、より自己-抑制的でないやり方で、考え、行動することができるようになっていったと考えられます。その結果、もともと彼に備わっていた才能が開花し、彼の実力が発揮されていったのでしょう。それは、彼に自信をもたらし、自らの考えに従い、より大胆に、積極的に行動するといった、生来の性格が復活していったのだと考えています。

 すでに述べたように、彼は二番手であることを好んでおり、その立場の時は、律儀従順に見えていたかもしれません。

 ただ、生来の性格は、ものごとに対する自らの正しさの基準があり、また、積極的という意味では、自らの願望を達成することにも前向きだったと考えられます。彼にとって、自らが「正しい」と考える目的を達成するためには、律儀さや実直であることは、邪魔でしかなかったのだと考えます。かりに、後年の家康に、「自分の性格を、いい性格と思うか、悪い性格と思うか」と問いかけたとしたら、たぶん、「悪い」と答えると思います。それは、彼の本心を隠すところ、悪知恵が働くところ、割に根に持つこところ、自分中心的なところなど、ではないでしょうか。


 ものごとには常に二面性があるように、性格というのも、いい面と悪い面の二面性があると考えています。狸親爺のような、性格の悪さゆえに、長年続いた天下泰平の世の礎を築くことができたと思います。ただの律儀者、正直者であったなら、たぶん、それは難しかったと思いますが、いかがでしょうか。


 家康にとって譜代家臣は家族 

 すでに述べたように、母と生き別れ、父には先立たれた家康は、さらに、人質としての苦難の生活を強いられます。

 それは、残された家臣にとっても同じことのようでした。つまり、主君である 家康(竹千代)を人質に取られ、城も奪われた家臣たちは、普段は百姓として糊口をしのぎ、戦いの時は、今川方に駆り出され、危険な戦場に立たされるといった苦難の中で生きることを強いられます。それでも、いつかは、主君を岡崎に迎えるといった忠誠心をもち続けていたようです。

 そのような同じ境遇にあった家康と譜代の松平家臣たちの間に、強く心を通わせるものがあったとしても、不思議ではないと考えます。

 もはや、家臣は単なる部下ではなく、家康にとっては家族の一員のようなものであり、家臣にとっても、それは同様だったのではないでしょうか。通常の主君と臣下の関係よりも、彼らの間の距離は近かったのではないかと考えられます。

 三河の一向一揆の際に、家臣団は敵と味方に分かれますが、敵方にあったにもかかわらず、その家臣たちは家康との直接の戦いを避けていたようです。

 また、譜代の家臣たちは、主君である家康に対して、きついことも遠慮せず意見、つまり、諫言をしていたようです。

 このような主家と家臣との関係は、かなり特異的なものであり、それは、徳川家の強さの源泉であったと考えられます。

◇「戦国武将シリーズ」の初回記事は、「性格」から見た明智光秀-なぜ本能寺の変は起こったのか- です。


【参考文献】

「徳川家康」、二木謙一、ちくま新書、1998.

「徳川家康の性格と健康法」、宮本義己(「徳川家康のすべて」、北島正元編、新人物往来社、1988.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」:志村宗生;東京図書出版、2023


 

  

 

 


2022年11月29日火曜日

「性格」から見たプーチン(4)-戦争終結へのシナリオ-

 はじめに 

 前回の投稿で、プーチンの「性格」から見てみた場合、ウクライナでの戦争の終結への途はとても困難なものとなる可能性が高いと、述べました。

 つまり、プーチンは、ロシア軍が多少劣勢に陥ろうとも、それで弱気になって、戦争を終わらせようと考える人ではありません。また、世界で孤立しようとも、外国の首脳たちの意見に耳を傾けるような人でもないのです。情報の限られたロシア国民に対しては、巧みな弁舌を駆使するなどの、情報のコントロールを行い、一定の国民の支持を維持しようとするでしょう。

 このように、戦争終結の兆候がなかなか見えてこないような状態が続くと考えられますが、それでは、いったい、どのような戦争終結の道筋がありうるのかについて、プーチンの「性格」といった観点から、考えてみたいと思います。






  戦争終結のシナリオ 

a.圧力をかけ続ける

 まず第一に、この戦争を終結に導くための、「必要条件」は、プーチンに圧力をかけ続けることだと考えています。


 圧力とは、第一に、欧米の武器支援をはじめとする、ウクライナ国民への支援を継続することで、戦況がウクライナに優位となる状態が続くようにすることです。つぎに、欧米による経済制裁も、じわじわとではありますが、ロシア経済に打撃を与え、軍備や国民生活に必要な物資の不足をもたらします。また、ウクライナ侵攻に脅威や不満を抱いている国々に対する働きかけは、それらの国々の、プーチンからの離反を速めていくかもしれません。

 このようにして、ロシアの劣勢が明らかになり、ロシアの孤立が進むと、一方で、それを何とか挽回しようとする、プーチンの動きも強まるのですが、他方で、プーチンの中で、自らの「完全さ」を守り切れないのではないかといった「不安」も増大するはずです。その不安の増大が、状況の変化をもたらす可能性を高めると考えます。

 では、ウクライナ侵攻が終結に向かうことに、何が「決定的なもの」となるのかについて述べてみますが、それは、あくまで、プーチンが政権の座についていることを前提とする話だ、ということをご承知おきください。


b.戦争により「偉大なロシア」が瓦解する危機を実感した時

 まず、第一に、戦争が終結する可能性があるとすれば、いかに、プーチンが抗ったとしても、ウクライナ侵攻を続ければ続けるほど、彼が理想とした「偉大なロシア」が逆に遠ざかっていくだけでなく、侵略開始前よりも、さらに衰退したロシアを見ることになることに気づいた時ではないかと考えています。ある意味で、「どん底」が見えてきたような時であり、ロシアや自らの未来に対して「不安」や「恐怖」を感じた時ではないでしょうか。



 そもそも、ウクライナへの侵攻は、「偉大なロシア」への復興を目指してのことであり、そのロシアを衰退させてまで、戦いを続けることに合理性はないはずです。でも、「全知全能」の存在となったという彼の思いこみが、合理性の範囲で行動することを妨げていたと考えられます。つまり、ものごとをすべてコントロールできるといった思い上がりが、ものごとの「限界」を認知する能力をプーチンから奪っていたのではないでしょうか。そんなプーチンの認識や行動を変えるものがあるとすれば、自らが大切にしているものが失われるという恐怖ではないかと考えられます。

 もともと、ものごとを合理的に考える傾向をもっている人なので、一旦、ウクライナの侵攻を断念すると決めたならば、その後は、合理性に従って行動できる人だと考えます。つまり、何らかの責任転嫁や言い訳をするかもしれませんが、粛々と、戦争終結への道を進めていくと考えられます。

 ただ、基本的に、プーチンの性格が変わった訳ではないので、和平交渉の中では、現実的な範囲ではありますが、執念深く、さまざまな要求をしてくることが考えられます。


c.盟友が離反しそうになった時

 第二に、戦争終結が始まる可能性のある場面とは、プーチンがもっとも頼りにしている、つまり、彼が精神的に依存しているような人たちが、プーチンから離れそうになった時だと考えます。


 そのような人たちとは、おそらく、最側近であるパトルシェフ安全保障会議書記、FSB・連邦保安庁のボルトニコフ長官の二人であると考えています。この二人をプーチンは、心底、頼りにしていると考えられます。ちなみに、この二人は、プーチンが、秘密裏に、ウクライナ侵攻の計画を依頼した人たちだとも言われています。(英紙「タイムズ」)

 もしも、彼らが、ウクライナ侵攻に非現実的にこだわり続けるプーチンを見捨てようとする時、プーチンは、彼らを引き留めるため、ウクライナでの戦争を終結することに、しぶしぶ、同意するかもしれません。プーチンの性格としては、一旦、意を固めたことを途中で覆すようなことはないので、粛々と、戦争終結へと歩を進めていくものと考えられます。


 おわりに 

 そのいずれのシナリオにしても、早期に実現される可能性は少ないでしょう。つらいことですが、しばらくは、激しい戦闘が続き、互いの兵士の死傷者や民間人の犠牲者は増え続けることになると思います。その先の、さらに、その先に、やっと平和が見えてくるものと考えます。

 できれば、全世界の指導者たちが、戦争がいかに悲惨で、文明や地球環境を破壊するものかを、この戦争を通して学んでくれたならば、多少は、この戦争による犠牲も、無駄ではなかったと思えるかもしれません。

 そうであることを祈るばかりです。

◇このシリーズの初回の記事は、「性格」から見たプーチン-(1)-なぜウクライナ侵攻を始めたのか-です。


【参考文献】

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.



 



2022年11月6日日曜日

「性格」から見たプーチン(3)-戦争終結の難しさ-

  はじめに   

 すでに述べたように、プーチンによって始められたウクライナ侵攻は、いまや、ウクライナ側の反転攻勢といった局面を迎えております。現時点では、両者とも、戦場における「優位」を目標としているようで、和平交渉による早期の停戦は望み薄の様相です。この戦争が「泥沼」へと向かう可能性もあり、世界の人たちは、それを懸念しているのではないでしょうか。

 今回は、プーチン関連の記事の第三弾として、プーチンによるウクライナ侵攻を終わりに導くことの難かしさについて、プーチンの「性格」の分析を通して、考えていきたいと思います。






 戦争終結の難しさ 

1)プーチンのウクライナ侵攻の、これまでの経過

 ここで、第一弾の記事である、「性格」から見たプーチン(1)について、振り返りつつ、その後の侵略の経過について述べてみます。

 まず、プーチンがウクライナ侵攻を始めたのは、彼の「内なる理想」である「偉大なロシア(帝政ロシア)」の復興を目指してのことだった、と述べました。極めて時代錯誤的な話ですが、彼は、そのような世界で生きていると考えられます。

 彼はとても「慎重」な性格でので、侵攻に踏み切るまでの三ヶ月間、欧米の出方を探り、「欧米の直接介入はない」と判断した時点で、侵攻を開始します。その間、ロシアの兵士たちは演習という名目で、劣悪な環境での待機を強いられることになり、それがキーウ侵攻の失敗の一因になったのですが‥‥。

 当初、プーチンは、ウクライナ政権の転覆と、それに代わる傀儡政権の樹立を企んでいて、キーウの占領を目論みます。でも、プーチンの計画は最善だったとしても、自軍とウクライナ軍の戦闘能力や戦意の「実態」を適切に評価していなかったようで、キーウ侵攻は失敗に終わります。ただ、彼は、自らを失敗のない完ぺきな指導者であると考えているので、敗北を受け容れられないプーチンは、それを作戦変更」という装いをまとわせ、ロシア国民には伝えます。

 とは言え、その敗北により、彼の「完全さ」が傷つけられた訳で、それを回復させるため、エネルギーや食糧を使った欧米への恫喝や、欧米以外の国を味方にするための外交など、精力的に活動をします。ただ、それは、彼の焦りによるものであり、「手あたり次第」という感は否めず、その結果は、あまり芳しいものではなかったと考えられます。

 その後、欧米による精密誘導兵器などの新たな武器供与が進み、それが効果をもたらすと、ウクライナの反転攻勢が始まりした。

 

2)プーチンの戦争を終結に導く「難しさ」

a.敗北を受け入れず、次々と策を打ってくる

 プーチンは、自らの肉体や精神、さらに、自らのまわりのものを思うようにコントロールしようとすることで、ひたすら、自らが完全無比な存在となることを目指してきた人だと考えます。それが達成される過程で、次第に、自分が完全な存在であるかのように感じるに至ったと考えられます。

 そんな彼は、外界を意のままに動かせるという、非現実的な考えをもち、さまざまな策略をもって、みずからの完全さを維持しようとするのではないでしょうか。彼にとって、自らの失敗や限界を認めることは、極端に言えば、自らが「無能」、「無力」であることを認めるに等しいことで、到底受け入れられることではないからです。

 だから、戦況が悪化し、彼が追い詰められられれば追い詰められるほど、彼の「威信」が傷つけば傷つくほど、プーチンは、さらなる「次の一手」を繰り出していくものと考えられます。ですので、戦争が終わりに向かうような動きは、なかなか見えてこないのではないか、と考えられます。


b.責任の転嫁

 彼が完全な存在であり続けるための、もう一つの策略は、自らの失敗・失策についての責任を他の人に「転嫁」することです。そうすることで、プーチンは、自らの過ちを「正当化」することができるのだ、と考えています。

 これまでも、作戦やその遂行上の失敗は、その指揮をとった軍人や諜報機関の幹部の無能のせいであるとして、その人たちを更迭したり、彼らに処罰を与えたりしています。


 国民に不人気となる可能性のあった、予備役の部分動員についても、あくまで、「ショイグ国防相の提案によるもの」と、その責任を彼に転嫁しています。

 また、ウクライナ侵略で生じた、エネルギーや食糧の世界的な危機についても、ウクライナを支援することで、戦争をいたずらに長引かせている欧米に責任がある、といった主張をしています。

 自らの責任を認めようとはしないので、それを追求することで、戦争を終結させようとする試みは、うまく進まないものと考えます。


c.説得や妥協を拒否する

 自らを完全だと考えるプーチンは、あたかも、自らが「全知全能」な存在になったかのような感覚に陥っていると考えています。自分だけがすべてを知り、ゆえに、正しい判断ができると考えている人なので、彼の考えに反する意見や説得はすべて、彼に対する「批判」や「挑戦」とみなされ、彼により却下されます。つまり、完ぺきな彼から見たら「凡庸」にしか見えない人たちの意見は、彼にとってまったく受け入れる余地のないものだとみなされるのではないでしょうか。

 インドのモディ首相との会談で、「戦争をしている場合ではない」と忠告をされていますが、プーチンはそれを無視したかのように、戦争継続の途を歩み続けています。

 また、「妥協」といった、相手の主張との中間点を受け入れるような行為は、彼にとって、すべて「弱さ」の表れと見なされます。彼は、「最善」でないと我慢ができないのです。そこから少しでも譲歩するようなことは、弱腰の何ものでもないと考えているのではないでしょうか。

 このことは、戦争終結に向けた、プーチンとの外交による交渉は、半ば不可能に近いことを意味すると考えられます。そもそも、外交交渉では、必ず相手側がいることなので、相手の意見を受け入れたり、妥協したりするといったことは、外交には不可欠の要素だからです。


d.言葉の魔術

 プーチンは、「言葉」というものを、人々に影響を及ぼし彼らをコントロールするための「道具」として、大いに利用をしている人だと考えています。巧みな弁舌、つまり、「雄弁」に語ることで、思うように人を動かしうると確信しているのではないでしょうか。長年にわたって、プーチンが作り上げてきた、” ことばを巧みに用いて効果的に表現する技術 ” 、つまり、「レトリック」の技術が人と対峙する時の主要な武器となっているのです。



 たとえば、自らの偉大さを示したい時には、「決然」とした言葉を選び、「断固」した態度で話すでしょう。自分にとって都合の悪い話題に対しては、たくみに主題を「あいまい」にしたり、話題の「すり替え」を行うでしょう。自らの責任を追及されるような場面では、他の人にそれを「転嫁」するでしょう。プーチンに対する挑戦的な意見に対しては、それを黙って受け入れることなく、威嚇したり、厳しく反論するでしょう。かりに自らの失敗を受け入れた時には、自分の非を受け入れられるほどに自分は「偉大」であり、「完全」であるという脈絡にすり替えるでしょう。そのように相手を威嚇したり、だましたりしているのにもかかわらず、自分は「徳」ある人間であるといった話にすり替えてしまうかもしれません。いずれにせよ、プーチンのレトリックは、自らの「完全さ」と「優越性」を守るために使われている策略の一つだと考えられます。

 このため、もっぱら、プーチンの言葉やプーチンから情報を情報源にしているようなロシア国民の多くが、彼の言葉から、偉大な指導者だと信じ込んでしまっていても不思議ではありません。そのことが、プーチンへの支持率が高止まりしている一因で、結果、ウクライナ侵攻への、国民の反対運動が盛り上がらないのではないでしょうか。

 最近、ロシア研究者などを集めた、プーチン主催の会議が開かれましたが、その際のプーチンの発言については、その内容よりも、彼がどのような「レトリック」を用いて話しているかに、注目をしてみてはいかがでしょうか。


e.自らの行為に自覚はない

 以上のことを、プーチンは「意図的」、「意識的」に行っているのではないと思います。なぜなら、そうすること、つまり、そのように考えたり、行動したりすることは、「彼の生き方そのもの」になっているからです。

 つまり、彼が息をしたり、歩いたりするのと同じように、自らの「完全さ」を維持するため、プーチンは、さまざまな策動や策略を行使していると考えられます。

 だから、そのことを指摘したとしても、間違いなく、プーチンの抵抗に会うでしょう。そして、否定やごまかしやすり替えなど、彼がこれまで行ってきた策略を駆使されるだけに終わるのではないでしょうか。

◇このシリーズの続きの記事は、性格」から見たプーチン(4)-戦争終結へのシナリオ-です。



【参考文献】

「強迫パーソナリティ」、L.サルズマン、1973.(邦訳:成田善弘、笠原嘉、みすず書房、1998.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

 


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