性格、性格分析、性格類型、プーチン、小室圭、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ゴッホ、水原一平

2022年12月21日水曜日

「性格」から見た徳川家康-律儀者か、狸親爺か-

 はじめに 

 今回は、戦国武将シリーズの最後に、徳川家康を取り上げてみました。

 ご存知のように、彼は、江戸に幕府を開き、265年もの間の、太平の世の礎(イシズエ)を築いた人です。ちなみに、徳川家康は、来年、某局の大河ドラマの主人公になるようです。 

 今回も、新しい性格類型を通して、彼の性格から見えてくる徳川家康の人となりを探っていきたいと思います。


(日光東照宮所蔵)


 ところで、家康については、律儀我慢強いといった評価がある半面、狸親爺に代表されるような、腹黒い利己的といった評価があります。
 それについては、彼の生得的な性格と、生育環境のために形作られた性格といった、二つの観点から、読み解いていきたいと思います。
 彼の生得的な性格とは、前向きで、冒険を好み、ものごとへの考えがしっかりあり、目的を達成することに意欲的なものだったと、考えています。
 けれど、幼少時期からの13年間の人質生活により、自らの考えや行動を自己規制する性格傾向が形成されたのではないか、と考えています。
 そして、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、今川家の支配から解放された後、次第に、生来の性格の方が優勢となっていったのではないかと考えました
 彼の性格傾向の特徴を具体的に述べる中で、それを明らかにしていきたいと思います。

 


 家康の性格の特徴 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向
2)劣等感が強い
3)二番手の位置を好む
4)にらまれないよう気を遣う
5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処
6)教訓話しが好き

 各項目の説明 

1)自らの考えがあっても、それを抑える傾向

 家康、特に、人生前半の家康は、自らの考えを表出したり、自らのやり方を実行したりすることを自己抑制するといった傾向が強かったと考えています。なので、意見を求められるような場合でも、彼はかなり控えめだったと考えられます。また、行動の面でも、何事にも用心深く自重する傾向が強く、また、彼の上に立つ人に対しては従順であったのだと考えられます。

 その理由は、" 苦難 " の連続とも言える彼の生い立ちに関係すると考えています。なので、それについて少しお話します。



(現在の岡崎城)


 家康は、三河の岡崎城城主である松平広忠の長男として、1942年に誕生します。ところが、母である於大の実家が敵方についたことで、家康(当時は、竹千代)が3歳の時、父広忠は於大を離別します。つまり、家康は3歳で実家に戻った母親とは別れ別れとなる訳です。その後、父の広忠が今川義元に従属せざるを得ない立場にあったため、当時、6歳であった家康は人質として義元の居城のある駿府に送られることとなり、さらに、父とも離されることになります。

 でも、その途中で、竹千代は敵方である織田の手に渡り、織田信秀の人質となってしまいます。信秀は、人質をたてに広忠に寝返りを要求しますが、広忠はそれを拒ばみます。幸いにも、そのことで竹千代は殺されることもなかったのですが、尾張での2年間の人質生活を強いられることになります。さらに、その間に、父の広忠が臣下に殺されるという、さらなる不幸が起こり、父の居城であった岡崎城は、今川方に没収されることとなります。



 その後、信秀と義元の間での人質交換により、家康は駿府に送られ、そこで、19歳となるまで、11年間の人質生活を送ります。人質といった立場ゆえに、行動は制限され、常に監視され、義元の命令にはすべて従わざるをえないといった環境下で、ひたすら忍従を強いられる生活を送ったのではないかと考えられます。また、義元の家臣たちにも軽く見られたり、侮られたりといった、屈辱的な出来事もあったようです。不用意なことをすると、まわりにバッシングされるようなことがあり、そのため、何事にも用心深くなったのではないかと考えています。

 このように、自由の少ない抑圧的な環境に身を置いていたため、「自らで自らを抑えてしまう」といった性格傾向が形作られたものと考えられます。つまり、積極的な行動や主張を控え、すべてに用心深く自重気味に行動することを自動的に選択するようになったと考えられます。当然、自由な感情表出も、自ら抑え込むようになっていったと考えられます。

 ただ、自己抑制的であったことが、プラスに働いた面もあると考えられます。それは、まわりの意見を取り入れようとする志向性が生じたということです。つまり、自分の考えが正しいと考え、それを推し進めようとするのではなく、まずは相手の話を訊き、相手から学ぼうといった姿勢につながっていったのではないでしょうか。


2)劣等感があった

 あくまで、新しい性格類型からの類推ですが、彼の生来の性格として、家康には、自らを人と比較する傾向があったのではないかと考えられます。その比較する対象が自分より優れた人たちなので、その結果、多少とも、劣等感を抱く傾向があったと考えられます。

 ただ、幼少時から後年に至るまで、彼のそばには、今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉といった、錚々たる武将が常にいました。彼らの能力、知識、経験などに対して「自分は及ばない」 と感じていたとしても不思議ではないと考えます。そのため、彼の劣等感はより強められたかもしれません。

 この劣等感が、彼に自信のなさをもたらしていた可能性があります。こころざしや野心があったとしても、彼らがいる間は、「自分にはできる」といった自信をもつことができなかったのではないかと考えられます


3)二番手の位置を好む

 すべてにあまり自信が持てず、抑制的にふるまうといった彼の性格傾向からは、彼にとって頂点に立つというよりも、トップの人のすぐ下の位置にいて、トップを支えるという立ち位置の方がに合っていたものと考えられます。また、マラソンで、風による抵抗を避けるためにトップランナーの後ろにつくのと同じように、二番手の方が体力や精神の消耗が少なかったのではないでしょうか。さらに、家康は、尊大な態度を取ったり、栄耀栄華を味わったりすることへの願望が乏しい人だと考えられます。それらがトップの下の立場を長く続けられた理由かもしれません。事実、義元、信長、秀吉の下で、二番手として、ひたすらトップを支え続けており、その間は、反逆を企てる素振りを、まったく見せてはいません。

 ただ、家康の生来の性格は、必ずしも、律儀で、誠実で、従順な性格では決してなかったと考えています

 彼は、二番手としてトップを支えながらも、二番手に許された自由を利用しながら、実績を積み、着々と国力を蓄えていったと考えられます。それらが、それなりの自信を家康にもたらしていたのではないでしょうか。しかも、単に一国の大名となることを目標としていたのではないと思います。強い野心や欲望ではなかったでしょうが、それが実現可能なものであれば、自らの手で天下を治めるといった夢を持ち続けていた人だと考えます。そうでなければ、先人たちを踏み台として天下を取るようなことは、到底できなかったと思います。


4)にらまれないよう気を遣う

 家康には、もともとまわりに気を遣う傾向はあったと考えています。その上、長年、"人質 "という立場にあり、義元やその家臣たちににらまれるということは、少しでも間違えれば、死を意味することでもあるで、彼らに嫌われないよう、極度に気を遣うという傾向がさらに強化されていったと考えられます。

 この傾向は、信長に対して顕著だったと考えられます。それについて、以下の二つの出来事について説明をします。

 第一のものは、武田信玄が上洛のため、精鋭二万余千の大軍を引き連れ、家康のいる遠江に進軍してきた時のことです。家康方は信長の援軍を加えても一万一千たらずで、当初、彼は浜松城に籠城して戦うことを決めます。ところが、信玄は浜松城を素通りし、西に進軍を始めます。このままでは、信長が窮地に追い込まれる可能性があり、戦いを避けたことを後々信長に糾弾されかねません。そこで、無謀にも、家康は信玄軍を追撃し、三方ヶ原で信玄軍と対戦します。結果は惨敗で、家康は九死に一生を得て、浜松城にたどり着きます。

 倍の軍勢を率いる信玄に、あえて野戦を挑むなど、用心深い家康なら、通常はありえない行動と考えられますが、そこまでしても、信長に気を遣ったのではないでしょうか。

 第二のものは、家康の長男である信康が信長の娘である徳姫を嫁に迎えたことに始まります。政略結婚でありながら、当初、夫婦仲はよかったとされていますが、次第に、姑である築山殿との確執があったり、夫に対する不満が高まったりしたため、徳姫は、父である信長に、夫の不行跡や姑の謀反の企みを糾弾する書状を送ってしまいます。それに対しての釈明を求めた信長に、家康は、家老である酒井忠次を信長の下に派遣します。この忠次は、信長から問いただされたことに何ら釈明らしきことをしなかったらしく、信長は、信康に腹を切らせることを、彼に命じたのでした。




 家康にとって大切な跡取りである信康を失うことは徳川家にとっての多大な損失であり、また、家康自身、親としても辛かったのにもかかわらず、信長に対して、信康をかばうことが一切できなかったことになります。

 事実、信長との同盟関係を危うくすることは、背後に敵を抱えている状態では、徳川家の存亡にかかわることだったかもしれませんが、それにしても、信長に対して気を遣いすぎていたのではないでしょうか。


5)将来の憂いに、先立って、徹底的に対処

 家康にとって、先々のことで、大いに心配になったことと言えば、それは金銭健康にかかわることではなかったのではないでしょうか。 



 金銭について言えば、もともと、国力のあまりない三河の地を統治するのに、お金の心配は尽きなかったのではないかと考えられます。特に、戦国の世では、軍資金として、また、家臣を養うために必要なものであり、常時から、蓄えておくことを求められているものです。家康は、お金に関する心配を前向きに解消しようとした人だと考えられます。その蓄財については、「~すべき」など、事細かに基準をつくり、それを徹底的に守り続けたようです。その基準は、食事の内容など、日常生活の細々としたことにも及んでいたようで、その行為は、天下人になっても続いていたようです。このため、それを見ている人たちからは、吝嗇、つまり、ケチだと思われていたようです。
 それと似たことは、彼の健康へのこだわりにも見られるようです。
 健康は、戦場での戦いでも必要なものですし、病気で亡くなってしまえば、天下を取ることもかないません。それで、家康は、積極的に、健康についての基準作りを行い、それを実行していったのだと考えられます。食事にも気を配り、酒もほどほどにするよう心がけます。武芸の修練も欠かさず行ったとされています。鷹狩りも、娯楽のためだけでなく、健康を維持するためのものだとされています。また、健康維持のため、薬草づくりにも、かなり熱心だったようです。



 結果的には、特に、健康への徹底的なこだわりが彼の長生きにつながり、最終的に天下取りとなることに役立ったものと考えられます。




6)教訓話をするのが好き
 家康は、主に晩年、側近くに控える御咄衆たちや譜代の家臣、また、跡継ぎの秀忠に、教訓めいた話をよくしていたようです。それを書き留めたものが、後世に説話集遺訓として残されています。

 それは、彼が、自らが経験して学んだことを人に教え説くことが好きだった人だから、なのではないでしょうか。自分の知識や経験は貴重なものであり、臣下たちにもそれを学んで、今後に役立ててほしいと考えていたと思われます。
 よく言えば、教育熱心であり、悪く言えば、多少押しつけがましい行為だったのかもしれません。

 

 家康は律義者か、狸親爺か 

 「はじめに」で述べたように、このことを理解するには、家康の生まれながらの性格と、幼少時から13年にわたる人質生活という環境で強化されてきた性格の、二つの観点から、考えていく必要があると考えます。

 もともとの彼の性格は、ものごとに対して積極的で、前向きなものだったと考えられます。人質時代、今川の臣下たちに軽視されることに対して、縁側から放尿することで抵抗を示したというエピソードから、彼の生来の反骨精神が垣間見られます。だが、すでに述べたように、長い人質生活の中で、自らを抑えるといった傾向が形成され、それが主となっていったものと考えられます。 

 つまり、人前で自らの意見を述べることは控え気味であり、行動は用心深く自重気味であり、支配するものには従順するといった行動となって表れていたと考えられます。

 ただ、その傾向は、彼を抑えつけていた人たち、つまり、義元信玄信長秀吉らのによって変化していったのではないでしょうか。家康が彼らから解き放たれることでもたらされた自由により、より自己-抑制的でないやり方で、考え、行動することができるようになっていったと考えられます。その結果、もともと彼に備わっていた才能が開花し、彼の実力が発揮されていったのでしょう。それは、彼に自信をもたらし、自らの考えに従い、より大胆に、積極的に行動するといった、生来の性格が復活していったのだと考えています。

 すでに述べたように、彼は二番手であることを好んでおり、その立場の時は、律儀従順に見えていたかもしれません。

 ただ、生来の性格は、ものごとに対する自らの正しさの基準があり、また、積極的という意味では、自らの願望を達成することにも前向きだったと考えられます。彼にとって、自らが「正しい」と考える目的を達成するためには、律儀さや実直であることは、邪魔でしかなかったのだと考えます。かりに、後年の家康に、「自分の性格を、いい性格と思うか、悪い性格と思うか」と問いかけたとしたら、たぶん、「悪い」と答えると思います。それは、彼の本心を隠すところ、悪知恵が働くところ、割に根に持つこところ、自分中心的なところなど、ではないでしょうか。


 ものごとには常に二面性があるように、性格というのも、いい面と悪い面の二面性があると考えています。狸親爺のような、性格の悪さゆえに、長年続いた天下泰平の世の礎を築くことができたと思います。ただの律儀者、正直者であったなら、たぶん、それは難しかったと思いますが、いかがでしょうか。


 家康にとって譜代家臣は家族 

 すでに述べたように、母と生き別れ、父には先立たれた家康は、さらに、人質としての苦難の生活を強いられます。

 それは、残された家臣にとっても同じことのようでした。つまり、主君である 家康(竹千代)を人質に取られ、城も奪われた家臣たちは、普段は百姓として糊口をしのぎ、戦いの時は、今川方に駆り出され、危険な戦場に立たされるといった苦難の中で生きることを強いられます。それでも、いつかは、主君を岡崎に迎えるといった忠誠心をもち続けていたようです。

 そのような同じ境遇にあった家康と譜代の松平家臣たちの間に、強く心を通わせるものがあったとしても、不思議ではないと考えます。

 もはや、家臣は単なる部下ではなく、家康にとっては家族の一員のようなものであり、家臣にとっても、それは同様だったのではないでしょうか。通常の主君と臣下の関係よりも、彼らの間の距離は近かったのではないかと考えられます。

 三河の一向一揆の際に、家臣団は敵と味方に分かれますが、敵方にあったにもかかわらず、その家臣たちは家康との直接の戦いを避けていたようです。

 また、譜代の家臣たちは、主君である家康に対して、きついことも遠慮せず意見、つまり、諫言をしていたようです。

 このような主家と家臣との関係は、かなり特異的なものであり、それは、徳川家の強さの源泉であったと考えられます。

◇「戦国武将シリーズ」の初回記事は、「性格」から見た明智光秀-なぜ本能寺の変は起こったのか- です。


【参考文献】

「徳川家康」、二木謙一、ちくま新書、1998.

「徳川家康の性格と健康法」、宮本義己(「徳川家康のすべて」、北島正元編、新人物往来社、1988.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」:志村宗生;東京図書出版、2023


 

  

 

 


2022年11月29日火曜日

「性格」から見たプーチン(4)-戦争終結へのシナリオ-

 はじめに 

 前回の投稿で、プーチンの「性格」から見てみた場合、ウクライナでの戦争の終結への途はとても困難なものとなる可能性が高いと、述べました。

 つまり、プーチンは、ロシア軍が多少劣勢に陥ろうとも、それで弱気になって、戦争を終わらせようと考える人ではありません。また、世界で孤立しようとも、外国の首脳たちの意見に耳を傾けるような人でもないのです。情報の限られたロシア国民に対しては、巧みな弁舌を駆使するなどの、情報のコントロールを行い、一定の国民の支持を維持しようとするでしょう。

 このように、戦争終結の兆候がなかなか見えてこないような状態が続くと考えられますが、それでは、いったい、どのような戦争終結の道筋がありうるのかについて、プーチンの「性格」といった観点から、考えてみたいと思います。






  戦争終結のシナリオ 

a.圧力をかけ続ける

 まず第一に、この戦争を終結に導くための、「必要条件」は、プーチンに圧力をかけ続けることだと考えています。


 圧力とは、第一に、欧米の武器支援をはじめとする、ウクライナ国民への支援を継続することで、戦況がウクライナに優位となる状態が続くようにすることです。つぎに、欧米による経済制裁も、じわじわとではありますが、ロシア経済に打撃を与え、軍備や国民生活に必要な物資の不足をもたらします。また、ウクライナ侵攻に脅威や不満を抱いている国々に対する働きかけは、それらの国々の、プーチンからの離反を速めていくかもしれません。

 このようにして、ロシアの劣勢が明らかになり、ロシアの孤立が進むと、一方で、それを何とか挽回しようとする、プーチンの動きも強まるのですが、他方で、プーチンの中で、自らの「完全さ」を守り切れないのではないかといった「不安」も増大するはずです。その不安の増大が、状況の変化をもたらす可能性を高めると考えます。

 では、ウクライナ侵攻が終結に向かうことに、何が「決定的なもの」となるのかについて述べてみますが、それは、あくまで、プーチンが政権の座についていることを前提とする話だ、ということをご承知おきください。


b.戦争により「偉大なロシア」が瓦解する危機を実感した時

 まず、第一に、戦争が終結する可能性があるとすれば、いかに、プーチンが抗ったとしても、ウクライナ侵攻を続ければ続けるほど、彼が理想とした「偉大なロシア」が逆に遠ざかっていくだけでなく、侵略開始前よりも、さらに衰退したロシアを見ることになることに気づいた時ではないかと考えています。ある意味で、「どん底」が見えてきたような時であり、ロシアや自らの未来に対して「不安」や「恐怖」を感じた時ではないでしょうか。



 そもそも、ウクライナへの侵攻は、「偉大なロシア」への復興を目指してのことであり、そのロシアを衰退させてまで、戦いを続けることに合理性はないはずです。でも、「全知全能」の存在となったという彼の思いこみが、合理性の範囲で行動することを妨げていたと考えられます。つまり、ものごとをすべてコントロールできるといった思い上がりが、ものごとの「限界」を認知する能力をプーチンから奪っていたのではないでしょうか。そんなプーチンの認識や行動を変えるものがあるとすれば、自らが大切にしているものが失われるという恐怖ではないかと考えられます。

 もともと、ものごとを合理的に考える傾向をもっている人なので、一旦、ウクライナの侵攻を断念すると決めたならば、その後は、合理性に従って行動できる人だと考えます。つまり、何らかの責任転嫁や言い訳をするかもしれませんが、粛々と、戦争終結への道を進めていくと考えられます。

 ただ、基本的に、プーチンの性格が変わった訳ではないので、和平交渉の中では、現実的な範囲ではありますが、執念深く、さまざまな要求をしてくることが考えられます。


c.盟友が離反しそうになった時

 第二に、戦争終結が始まる可能性のある場面とは、プーチンがもっとも頼りにしている、つまり、彼が精神的に依存しているような人たちが、プーチンから離れそうになった時だと考えます。


 そのような人たちとは、おそらく、最側近であるパトルシェフ安全保障会議書記、FSB・連邦保安庁のボルトニコフ長官の二人であると考えています。この二人をプーチンは、心底、頼りにしていると考えられます。ちなみに、この二人は、プーチンが、秘密裏に、ウクライナ侵攻の計画を依頼した人たちだとも言われています。(英紙「タイムズ」)

 もしも、彼らが、ウクライナ侵攻に非現実的にこだわり続けるプーチンを見捨てようとする時、プーチンは、彼らを引き留めるため、ウクライナでの戦争を終結することに、しぶしぶ、同意するかもしれません。プーチンの性格としては、一旦、意を固めたことを途中で覆すようなことはないので、粛々と、戦争終結へと歩を進めていくものと考えられます。


 おわりに 

 そのいずれのシナリオにしても、早期に実現される可能性は少ないでしょう。つらいことですが、しばらくは、激しい戦闘が続き、互いの兵士の死傷者や民間人の犠牲者は増え続けることになると思います。その先の、さらに、その先に、やっと平和が見えてくるものと考えます。

 できれば、全世界の指導者たちが、戦争がいかに悲惨で、文明や地球環境を破壊するものかを、この戦争を通して学んでくれたならば、多少は、この戦争による犠牲も、無駄ではなかったと思えるかもしれません。

 そうであることを祈るばかりです。

◇このシリーズの初回の記事は、「性格」から見たプーチン-(1)-なぜウクライナ侵攻を始めたのか-です。


【参考文献】

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.



 



2022年11月6日日曜日

「性格」から見たプーチン(3)-戦争終結の難しさ-

  はじめに   

 すでに述べたように、プーチンによって始められたウクライナ侵攻は、いまや、ウクライナ側の反転攻勢といった局面を迎えております。現時点では、両者とも、戦場における「優位」を目標としているようで、和平交渉による早期の停戦は望み薄の様相です。この戦争が「泥沼」へと向かう可能性もあり、世界の人たちは、それを懸念しているのではないでしょうか。

 今回は、プーチン関連の記事の第三弾として、プーチンによるウクライナ侵攻を終わりに導くことの難かしさについて、プーチンの「性格」の分析を通して、考えていきたいと思います。






 戦争終結の難しさ 

1)プーチンのウクライナ侵攻の、これまでの経過

 ここで、第一弾の記事である、「性格」から見たプーチン(1)について、振り返りつつ、その後の侵略の経過について述べてみます。

 まず、プーチンがウクライナ侵攻を始めたのは、彼の「内なる理想」である「偉大なロシア(帝政ロシア)」の復興を目指してのことだった、と述べました。極めて時代錯誤的な話ですが、彼は、そのような世界で生きていると考えられます。

 彼はとても「慎重」な性格でので、侵攻に踏み切るまでの三ヶ月間、欧米の出方を探り、「欧米の直接介入はない」と判断した時点で、侵攻を開始します。その間、ロシアの兵士たちは演習という名目で、劣悪な環境での待機を強いられることになり、それがキーウ侵攻の失敗の一因になったのですが‥‥。

 当初、プーチンは、ウクライナ政権の転覆と、それに代わる傀儡政権の樹立を企んでいて、キーウの占領を目論みます。でも、プーチンの計画は最善だったとしても、自軍とウクライナ軍の戦闘能力や戦意の「実態」を適切に評価していなかったようで、キーウ侵攻は失敗に終わります。ただ、彼は、自らを失敗のない完ぺきな指導者であると考えているので、敗北を受け容れられないプーチンは、それを作戦変更」という装いをまとわせ、ロシア国民には伝えます。

 とは言え、その敗北により、彼の「完全さ」が傷つけられた訳で、それを回復させるため、エネルギーや食糧を使った欧米への恫喝や、欧米以外の国を味方にするための外交など、精力的に活動をします。ただ、それは、彼の焦りによるものであり、「手あたり次第」という感は否めず、その結果は、あまり芳しいものではなかったと考えられます。

 その後、欧米による精密誘導兵器などの新たな武器供与が進み、それが効果をもたらすと、ウクライナの反転攻勢が始まりした。

 

2)プーチンの戦争を終結に導く「難しさ」

a.敗北を受け入れず、次々と策を打ってくる

 プーチンは、自らの肉体や精神、さらに、自らのまわりのものを思うようにコントロールしようとすることで、ひたすら、自らが完全無比な存在となることを目指してきた人だと考えます。それが達成される過程で、次第に、自分が完全な存在であるかのように感じるに至ったと考えられます。

 そんな彼は、外界を意のままに動かせるという、非現実的な考えをもち、さまざまな策略をもって、みずからの完全さを維持しようとするのではないでしょうか。彼にとって、自らの失敗や限界を認めることは、極端に言えば、自らが「無能」、「無力」であることを認めるに等しいことで、到底受け入れられることではないからです。

 だから、戦況が悪化し、彼が追い詰められられれば追い詰められるほど、彼の「威信」が傷つけば傷つくほど、プーチンは、さらなる「次の一手」を繰り出していくものと考えられます。ですので、戦争が終わりに向かうような動きは、なかなか見えてこないのではないか、と考えられます。


b.責任の転嫁

 彼が完全な存在であり続けるための、もう一つの策略は、自らの失敗・失策についての責任を他の人に「転嫁」することです。そうすることで、プーチンは、自らの過ちを「正当化」することができるのだ、と考えています。

 これまでも、作戦やその遂行上の失敗は、その指揮をとった軍人や諜報機関の幹部の無能のせいであるとして、その人たちを更迭したり、彼らに処罰を与えたりしています。


 国民に不人気となる可能性のあった、予備役の部分動員についても、あくまで、「ショイグ国防相の提案によるもの」と、その責任を彼に転嫁しています。

 また、ウクライナ侵略で生じた、エネルギーや食糧の世界的な危機についても、ウクライナを支援することで、戦争をいたずらに長引かせている欧米に責任がある、といった主張をしています。

 自らの責任を認めようとはしないので、それを追求することで、戦争を終結させようとする試みは、うまく進まないものと考えます。


c.説得や妥協を拒否する

 自らを完全だと考えるプーチンは、あたかも、自らが「全知全能」な存在になったかのような感覚に陥っていると考えています。自分だけがすべてを知り、ゆえに、正しい判断ができると考えている人なので、彼の考えに反する意見や説得はすべて、彼に対する「批判」や「挑戦」とみなされ、彼により却下されます。つまり、完ぺきな彼から見たら「凡庸」にしか見えない人たちの意見は、彼にとってまったく受け入れる余地のないものだとみなされるのではないでしょうか。

 インドのモディ首相との会談で、「戦争をしている場合ではない」と忠告をされていますが、プーチンはそれを無視したかのように、戦争継続の途を歩み続けています。

 また、「妥協」といった、相手の主張との中間点を受け入れるような行為は、彼にとって、すべて「弱さ」の表れと見なされます。彼は、「最善」でないと我慢ができないのです。そこから少しでも譲歩するようなことは、弱腰の何ものでもないと考えているのではないでしょうか。

 このことは、戦争終結に向けた、プーチンとの外交による交渉は、半ば不可能に近いことを意味すると考えられます。そもそも、外交交渉では、必ず相手側がいることなので、相手の意見を受け入れたり、妥協したりするといったことは、外交には不可欠の要素だからです。


d.言葉の魔術

 プーチンは、「言葉」というものを、人々に影響を及ぼし彼らをコントロールするための「道具」として、大いに利用をしている人だと考えています。巧みな弁舌、つまり、「雄弁」に語ることで、思うように人を動かしうると確信しているのではないでしょうか。長年にわたって、プーチンが作り上げてきた、” ことばを巧みに用いて効果的に表現する技術 ” 、つまり、「レトリック」の技術が人と対峙する時の主要な武器となっているのです。



 たとえば、自らの偉大さを示したい時には、「決然」とした言葉を選び、「断固」した態度で話すでしょう。自分にとって都合の悪い話題に対しては、たくみに主題を「あいまい」にしたり、話題の「すり替え」を行うでしょう。自らの責任を追及されるような場面では、他の人にそれを「転嫁」するでしょう。プーチンに対する挑戦的な意見に対しては、それを黙って受け入れることなく、威嚇したり、厳しく反論するでしょう。かりに自らの失敗を受け入れた時には、自分の非を受け入れられるほどに自分は「偉大」であり、「完全」であるという脈絡にすり替えるでしょう。そのように相手を威嚇したり、だましたりしているのにもかかわらず、自分は「徳」ある人間であるといった話にすり替えてしまうかもしれません。いずれにせよ、プーチンのレトリックは、自らの「完全さ」と「優越性」を守るために使われている策略の一つだと考えられます。

 このため、もっぱら、プーチンの言葉やプーチンから情報を情報源にしているようなロシア国民の多くが、彼の言葉から、偉大な指導者だと信じ込んでしまっていても不思議ではありません。そのことが、プーチンへの支持率が高止まりしている一因で、結果、ウクライナ侵攻への、国民の反対運動が盛り上がらないのではないでしょうか。

 最近、ロシア研究者などを集めた、プーチン主催の会議が開かれましたが、その際のプーチンの発言については、その内容よりも、彼がどのような「レトリック」を用いて話しているかに、注目をしてみてはいかがでしょうか。


e.自らの行為に自覚はない

 以上のことを、プーチンは「意図的」、「意識的」に行っているのではないと思います。なぜなら、そうすること、つまり、そのように考えたり、行動したりすることは、「彼の生き方そのもの」になっているからです。

 つまり、彼が息をしたり、歩いたりするのと同じように、自らの「完全さ」を維持するため、プーチンは、さまざまな策動や策略を行使していると考えられます。

 だから、そのことを指摘したとしても、間違いなく、プーチンの抵抗に会うでしょう。そして、否定やごまかしやすり替えなど、彼がこれまで行ってきた策略を駆使されるだけに終わるのではないでしょうか。

◇このシリーズの続きの記事は、性格」から見たプーチン(4)-戦争終結へのシナリオ-です。



【参考文献】

「強迫パーソナリティ」、L.サルズマン、1973.(邦訳:成田善弘、笠原嘉、みすず書房、1998.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

 


2022年10月19日水曜日

「性格」から見たプーチン (2)-核兵器の使用の可能性-

 はじめに 

 プーチンによるウクライナ侵攻が始まって、はや8ヶ月の月日が経ちました。
  その間に、キーウ侵攻の失敗、ブチャの虐殺、ウクライナ軍の反転攻勢など、戦況は、侵攻当初とはかなり違った様相となっています。
  それでも、未だ戦争の終結は見えてこず、また、戦況がロシア側に不利なものとなるに従い、プーチンによる核兵器の使用の恐れといった問題も、この戦争をさらに深刻なものとしています。

 そこで、第2弾として、「性格類型」を通して見た、プーチンの「核兵器使用の可能性」について考えていきたいと思います。

 なお、第3弾では、「戦争終結への道筋」について考えていく予定です。





 プーチンによる核使用の可能性 

1)核使用への言及

 侵攻当初から、プーチンは、しばしば、ウクライナや欧米に対する核兵器の使用について、それをほのめかしたり、明らかに言及したりしています。いわゆる、プーチンの核による「恫喝」です。
 8月からのウクライナ側の反転攻勢が成果を上げつつある今日、ロシア側の核兵器使用についての発言が強まっているように見えます。この場合の核兵器とは、大都市を丸ごと廃墟とするような大型の核兵器ではなく、主に、「戦略核」と呼ばれているような、もっぱら戦場で用いられる小型の核兵器のことです。それでも、日本に落とされた「原爆」とあまり変わらない威力をもつものであり、民間人の無差別殺戮や、広域の放射能汚染を引き起こす可能性が否めない兵器です。


2)核抑止とは、核による恫喝

 ところで、核兵器は、そのすさまじい破壊力ゆえに、主に、局地戦での使用目的ではなく、あくまで、大国同士の大戦を「抑止」する目的で保持されている兵器です。つまり、抜かれることのない「伝家の宝刀」のようなものです。だから、核兵器をもつことで、自国の存亡にかかわるような敵の侵略があれば核兵器を使用すると、相手を「威嚇」、「恫喝」することで、そのような侵攻を未然に「抑止」しているものなのです

 つまり、核兵器とは、” そもそも” 、敵に対する「威嚇」や「恫喝」として用いられているものです。通常は、それは「言わずもがな」の事柄に属するものなのですが、プーチンは、「情報戦」の一環として考えているのか、核使用についてたびたび言及しているに過ぎないとも考えられます。


3)プーチンは無謀なことをしない

 すでに第一弾で述べた、プーチンの性格の中で、「気が小さい」という性格傾向の項目をあげています。

 「尊大」な態度からは想像しにくいのですが、彼は、とても「慎重」な性格で、「臆病」ともいえるような人だと考えています。つまり、彼は、傷つくこと、自分が無力だと感じることに恐れを抱いており、そうなることを極力避けるために、「完全」な存在となることを目指していました。そうする中で、自らが「完全」を達成した人間と思い込むに至り、プーチンは、あのような「尊大」な自己像をもつことになったと考えられます。

 マスコミによる報道の中で、「偉大なロシア」といったプーチンの考え方は「妄想」であり、無謀なウクライナ侵攻を行ったプーチンは「理性を失っている」と考える人たちがいます。つまり、彼は、妄想に囚われた、気がふれた人物だと。でも、彼の性格から見ると、「偉大なロシア」は彼の「内なる理想」であり、ウクライナ侵攻も彼なりに、理性的に考えた結論だと、考えられます。

 ところで、合理的に考えれば、ウクライナ侵攻で核兵器を使用することは、第一に、戦争のステージを変えてしまうもので、これまでも見られたように、欧米のさらなる介入を招き、ロシアにとって戦況が今よりも不利となっていく可能性があります。また、広大な領土をもつウクライナで、小型の核兵器の使用がどの程度戦況を有利に導くかは疑わしいとされています。それに、核兵器の使用は、世界各国の非難を浴び、世界におけるロシアの孤立をさらに深めることでしょう。

 このように考えると、いまのプーチンが核兵器の使用という「大胆な行動」に出ることは、まずないと考えられます。彼は、彼が「無謀」と考えるようなことはする人ではないからです。また、やってみなければわからないようなことに、あえて「挑戦」する人ではないと考えられます。だから、現状では、動員による通常戦力の強化とか、彼が有能と考える司令官の登用など、この戦況に対して彼なりの「合理的」な対処を試みていくと考えられます。

 ただ、彼は自らを「完全」と考えていて、まわりの意見に耳を傾けてこなかったという問題があり、さらに戦況の悪化した後も、核兵器の使用に対して、プーチンが合理的、かつ、慎重でありうるのかという点で、多少不透明さはぬぐえないかもしれません。

◇このシリーズの続きの記事は、「性格」から見たプーチン(3)-戦争終結の難しさ-です。


【参考文献】

「強迫パーソナリティ」、L.サルズマン、1973.(邦訳:成田善弘、笠原嘉、みすず書房、1998.)

「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.

 


 

2022年10月18日火曜日

「性格」から見た秀吉-天下統一の達成と晩年の驕り-

 はじめに 

 天下統一の志半ばでたおれた信長の後を引き継ぐ形で、それを成し遂げた人物が羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉す。彼の天下取りは、信長のような、主に武力にたよる力攻めでなく、大軍を背景にしながらも、調略や説得を主として、戦わずに相手方を屈服させるというものでした。それは、両者の性格の違いを表していると考えられます。
 今回は、秀吉の「性格」の分析を通して、彼が天下の覇者となった理由と、彼の死後、豊臣家を滅亡へと導く要因となった、晩年の彼の「驕り」ついても述べてみます。

 彼の性格傾向についてあげてみます。

     
      (豊臣秀吉肖像 高台寺所蔵)


 性格傾向の項目 

1)基本的に、「前向き」
2)ものごとの対処には「万全を尽くす」
3)ものごとに対する自分なりの「基準」がある
4)気が回る
5)気配り・気遣い
6)世話好き・面倒見がいい
7)目立ちたがり
8)「情」がある
9)「驕り」=自らの考えの押しつけ


 各性格傾向の説明 

1)基本的に、「前向き」

 秀吉は、ものごとに対して、基本的に、前向きで、積極的な姿勢をもつ人だと考えています。彼は、リスクを冒すことにためらいはなく、前向きに、ものごとに突き進んでいくように見受けられます。つまり、何事にも「守り」でなく、「攻め」の態度や姿勢が際立つ人ではないでしょうか。そのことが、ある面では、「陽気」とか、「根が明るい」といった印象をまわりに与えていたのではないでしょうか。

2)ものごとの対処には「万全を尽くす」

 「攻め」の姿勢といっても、秀吉は闇雲に突き進んだという訳ではないと考えられます。ものごとがうまく進み、その結果、目標がきちんと「達成」されるよう、事前の準備を怠らず、また、その経過がうまくいっているかにも細かく気を配るなど、自らの仕事には「万全を尽くす」ような人だったと考えられます。「完ぺき主義者」といってもいいでしょう。 
 事実、因幡の鳥取城を攻略する際には、事前に、敵の兵糧米として使われないように、因幡の国の米を買いあさったり、兵糧米を減らすように籠城する人を増やすような謀りことをしたりしています。もちろん、取り囲んだ後も、外から援軍や兵糧米が城に入らないよう、細心の手配を怠ることはありません。
 同じく信長にも完ぺき主義的な傾向がある人なのですが、信長のそれは、極力、「過ちを避ける」といった形の完ぺきであり、ものごとの達成には「最善」を求め、完ぺきを押し進めようとする秀吉の完ぺきとは、やや異なるものと考えます。

3)ものごとに対する自分なりの「基準」がある

 秀吉は、ものごとに対しての自らの考えやものの見方をはっきりと持っている人だったと考えています。つまり、ものごとは、「こうあるべき」とか、「こうすべきとか」、「これが正しい」とか、はっきりとした自分なりの「基準」をもっていたと考えています。
 その基準があればあれこれ考える手間が省けるため、ものごとの対処についての「判断」は素早くできる半面、ややもすると、ものごとに対する独断的な「思い込み」となるリスクをはらんでいると考えられます。
 北陸で上杉謙信と対峙していた柴田勝家が苦戦をしていた際、勝家への支援を信長に命じられるのですが、信長の許しもないまま、戦線を離脱し、居城に帰ってしまいます。それは、作戦進め方で勝家と意見が合わなかったことがその理由と言われていますが、当然、信長はそれに激怒します。でも、運よく松永久秀の謀反が起こったこともあって、信長の赦しが出ることになりますが、そんなリスクを冒してまで、彼は「自らの正しさ」を貫こうとしたのだと考えられます。
 話は変わりますが、秀吉の関心は自らの内面でなく、多くは「外部」の世界、つまり、人やものごとに向けられていたと考えられます。これは、主要な関心が自らの「内部の世界」に向いている信長とは、対照的だと考えられます。

4)気が回る

 「気が回る」とは、" 細かいところまで注意が行き届く" といった意味であり、「気が利く」という言葉とほぼ同義とされています。
 秀吉は、さまざまなものごとについて、人が気づかないようなところに注意(意識)がいき届くといった、優れた才能をもっており、主人に仕えた時には、その能力が十分に生かされ、彼の働きは主人に認められていきます。
 信長に仕えた時も、早朝の火事で、信長が出ようとした時、秀吉が馬を用意していたとか、鷹狩りの時、声がかかると一番に控えていたとか、といった逸話があるとのことです。
 また、他の人がしないような発想をするの持ち主だったらしく、塀の普請を任された時、工事の個所を組に割り振り、互いに競わせることで、短期間で完成させたとのことです。

5)気配り・気遣い

 そんな秀吉は、「人」に対しても、細かいところまで注意が行き届く人だったと考えられます。つまり、まわりの人たちの気持ちや考えを敏感に察知できる人であり、「共感性が高い」人と言えます。その上、人に対して、抜群の「気配り」や「気遣い」ができる人だったと考えられます。
 たぶん、人を説得する場合にも、相手が何を考えているか、何を欲しているか、それらをうまく察知し、その上で、さらに相手への「気配り」もでき、特に、敵将への調略工作のには、その能力が最大限発揮されていたものと考えられます。
 たとえば、武力による信長の美濃攻略がうまくいかず、行き詰っていた時、秀吉は敵方の主な武将を次々と調略し、彼らを味方に引き入れるといった活躍を見せています。それが、信長の美濃攻略を最終的に成功に導いたとされています。
 信長の死後、天下統一を果たす時も、圧倒的な軍事力を誇示しつつも、むしろ、心理戦で敵を屈服させるといったやり方を選択しているのは、秀吉が人の心を読むことに抜群の能力があったためだと考えられます。秀吉は、この才能を発揮することで、信長の死後、たったの8年で、天下統一を成し遂げます。
 人びとに対する気配り・気遣いは、正室や側室に対して書かれた手紙の書面からもうかがわれます。秀吉の彼女らに書いた手紙が数多く残されており、その中で、彼は、贈りもののお礼や健康への配慮など、彼女たちに実に細やかな気遣いをしています。


6)世話好き・面倒見がいい

 もともと有力な部下がいなかった秀吉は、出世をする過程で、優秀な人材を見い出しては部下として取りたたています。とりわけ、気に入った部下には目をかけ、彼らを教育をしたり、生活面でも世話をしたりしています。彼らが戦や政務などで結果を出せば、知行を与え、彼らをひとかどの武将として取り立てていきます。そのようにして、「子飼い」の家臣団を形成していき、その彼らの働きが秀吉の天下統一をサポートしていったものと考えられます。


7)目立ちたがり

 秀吉は、「人から認められること」、また、「人から注目されること」への、潜在的な欲求がある人だと考えています。彼の出世に対するインセンティブの一部は、その欲求に由来するものではないでしょうか。
 4)で述べたように、「気が利く」といった才能があり、それを生かした働きぶりを主人に評価されるわけですが、それを敢えてまわりに隠そうとはせず、むしろ、アピールするようなところが彼にはあったと考えられます。
 それが、ネガティブに働くこともあります。たとえば、信長に仕える前、松下嘉兵衛という武士に奉公したことがありますが、主人に取り立てられていく秀吉はまわりの人たちの妬みや嫉みを買い、いじめられたため、主人のところにいられなくなるということもありました。
 さらに、天下人になった後、彼は朝鮮や大国のの支配を求め、朝鮮出兵を強行します。その背景には、「天下人」ではもの足りず、さらに「名声を得たい」といった、彼の強い功名心があったのではないでしょうか。その自己顕示的な傾向が、彼の暴走ともいえる行為を招いた一因ではないでしょうか。


8)「情(ジョウ)」がある

 「情」といっても、情熱とか怨念とかの強い情ではなく、たとえば、家族に対する「情愛」のような「情」だったり、「感傷」、つまり、ものごとに感じやすく、すぐ悲しんだり同情したりするような類の「情」だったのではないでしょうか。
 彼が、母や正室のおね、または、側室たちにあてた手紙が多数残されていますが、その文面からは、彼らに対する細やかな「情」がうかがわれます。
 ちなみに、信長は、そうした「優しさ」の表出は「弱さ」の表れとして相手に見くびられるリスクがあると考えるところのある人なので、それらを極力抑制しており、それゆえ、「冷たい」人と見られていたと考えられます。
 ちなみに、その「情」は、ある程度、子飼いの部下や、一部の大名やその家来に対しても示されているようで、秀吉への「恩義」というものは、知行を与えられたことだけでなく、そうした「情」からも生じていたのではないでしょうか。そのような形で築かれた主従関係は、彼の強権と相まって、天下を統治するのに役立っていたものと考えられます。ただ、それは秀吉の存命中に限られたもので、彼の死後、それによる天下統治の力は弱まっていった可能性があります。

 

9)「驕り」=自らの考えの押しつけ

 3)で述べたように、秀吉には、「べき」とか、「正しい」といった、ものごとへの自らの「基準」があります。それに相手が強く反発できないような場合には、それを一方的に押しつけようとする傾向が生じる可能性があります。特に、天下人となった後に、その傾向がさらに強まったものと考えられます。
 7)で述べた、彼の功名心だけでなく、天下人となり、自分の考えを押し通すことができるようになったことも、秀吉を朝鮮出兵といった無謀な行動を強行した一因ではないかと考えています。
 ちなみに、現代では、このような「驕り」から、部下に、自らの「正しい」考えを一方的に押しつける上司の行動は、パワハラと呼ばれています。

◇「戦国武将シリーズ」の続きの投稿記事は、「性格」から見た徳川家康-律儀者か、狸親爺か-です。


【参考文献】

「秀吉のすべてがわかる本」、小和田哲男、三笠書房、1995.
「太閤の手紙」、桑田忠親、講談社、2006.
「性格と精神疾患」、志村宗生、金剛出版、2015.






2022年8月27日土曜日

「性格」から見た織田信長-信長の成功と失敗の理由(わけ)-

     はじめに  


 「戦国武将」の第二回は、織田信長を取り上げます。

 信長が尾張一国の平定をほぼ達成できた頃、尾張に攻め込んできた今川義元を彼は逆に打ち取り、その後、美濃攻略を開始します。それを成し遂げた後、「天下布武」を掲げて、上洛を果たし、戦国大名や宗教勢力の抵抗や、味方の離反などの、さまざまな困難を乗り越え、畿内とその周辺の分国の支配に成功を収めます。でも、最後は、部下である明智光秀の謀反により、彼の野望は終わりを告げることになるのですが、彼の性格についての分析を通して、彼の成功と失敗の理由にも迫っていきたいと思います。


(豊田市 長興寺所蔵)








 性格傾向の項目  


1)合理的な考えの持ち主
2)自らの理想に対する強い固執
3)尊大で、傲慢
4)極めて慎重
5)潔癖さ
6)意外に気が小さいところがある
7)気の短さ
8)精力的であること
9)人任せにできないこと
10)意外に、外的なものごとへの見落としがある


 各項目の解説          


1)合理的な考えの持ち主

 信長には、世間一般の、いわゆる「常識的」なものの見方や、社会規範(ルールやマナー)といったものに対するとらわれといったものはなかったと考えられます。世間一般の人たちがもつ ”こうあるべき” といったようなことへの「こだわり」といったものはなく、” ものごとの是非は、事と次第によっていくらでも変わるもの” と、彼は極めて「合理的」に考えていたと思います。したがって、旧来の宗教勢力や朝廷権力や室町幕府に対する絶対的な崇拝や服従といった中世的な常識的発想もないかわりに、自らの戦争遂行や領国支配などに必要とあれば、それらを利用することにもためらいはなかったものと考えられます。
 青年期には、領主の跡取りにはふさわしくない装いや風体で街を闊歩していたとのことで、領民からは「大うつけ」と、陰であざ笑われていたとされています。ただ、たぶん、近習たちとの戦の訓練ごっこには、その姿の方が機能的であったと考えたための装いや風体であって、それも彼の、世間の常識や規範にとらわれない、合理的な考え方を表しているものではないでしょうか。
 また、信長の合理的な考えは、彼の人材登用にも表れています。つまり、秀吉や光秀に象徴されるように、家柄や出自にとらわれず、有能だと見込んだ人材を積極的に登用し、彼らに重責を担わせています。



2)自らの理想に対する強い固執

 信長の主要な関心というものは、自らの「内部の世界」に向いています。それは、自らやものごとに対する「理想的」なあり方や考え方であり、それに対しては強い「こだわり」を示します。つまり、容易にその考えを捨てることはなく、それに固執するのです。平たく言うと、自分の考えに対しては、極めて「頑固」だということです。
 信長にとっての自らの主な理想といえば、それは「天下静謐」であり、そのための「天下布武」であり、信長は、自らが危険にさらされ、また、さまざまな困難に直面しながらも、精力的に、その理想を推し進めようとしました。たとえば、朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りに会い、命からがら京に戻った信長ですが、その二か月後には、姉川で浅井・朝倉連合軍と対峙し、それを何とか打ち破ってます。浅井・朝倉から見れば、信長はとても「執念深い」、「嫌な」存在ではなかったでしょうか。



3)尊大で、傲慢

 信長にとって、一番好きなものは「自分」であり、大事にすべきものも「自分」であり、正しいのも「自分」であると考えられます。だから、特に、自分の部下たちからの意見や忠告などに対しては、基本的には、「自らの考えに相いれないものはすべて却下」といったような態度で接していたと考えられます。ルイス・フロイスは、信長のことを、 “ 自らの見解に尊大であった  と書き記しています。
 ただし、ものごとの道理はわきまえていたので、自分と対等か、格上だと考えるような人たちに対しては、それなりの礼儀をもって接していたと考えられます。また、現実を正しく吟味できる眼も持ちえていたので、自らの考えよりも優れていることに気がつけば、部下の提案も、たぶん、受けいれていたのでしょう。



4)極めて慎重

 一度、決断した時は、迷いなく行動に移す信長ですが、決めるまでは、かなり慎重だったと考えられます。
 たとえば、桶狭間の戦いの時は、籠城か、城を出て戦うかを決めるまでに時間をかけています。また、城を出て戦うと決めた後も、今川軍本隊と今川義元の居所を確かめるために、かなりの時間を使っています。物見を放ち、周辺の地侍にも情報の提供を命じ、そして、今川本陣についての地侍からの情報がもたらされて初めて、攻撃を決断します。
 また、自らが計画した戦いに関しては、情報を集めたり、調略や謀略などの下工作をしたりなど、戦いに出るまでの間、かなり緻密な企てをした後に、初めて戦いを始めていると考えられます。
 さらに、上洛の前には、武田信玄との同盟を確実なものにするため、武田家と姻戚関係をもったり、贈り物を送ったりなど、極めて丹念な外交的な工作を行っており、神経質とさえ形容できるような彼の慎重さぶりが見られます。
 おそらくは、この慎重さが、彼が戦の戦術面で優れていたという理由の一つであり、その結果、信長が、尾張一国から日本の三分の一の領土を支配下に治めるまでなったと考えられます。



5)潔癖さ

 信長にとって、この世界が、自らが 「よし」とするような形で「整えられていること」が何より重要であったと考えられます。つまり、ものごとは彼の考えている「秩序」の中にきちんと納まっているべきである、ということです。そうなっていれば、彼は「安心」であるし、その「秩序」が乱された場合には、「不快」となる訳です。その秩序の中に含まれる、彼の内的な規律は、「白」か「黒」かというように、極めて明確に区切られたものだと考えられます。そこから、彼の、極めつきの「潔癖さ」が生じていると考えます。ルイス・フロイスも、信長のことを "正義においては厳格" と書いています。
 そのような「潔癖」な信長にとり、彼の考える「秩序」が乱されるような事柄は、彼に不快感を与え、気短な性向も相まって、彼に激しい怒りをもたらすことになります。
 たとえば、室町将軍の足利義政の不正や怠慢を説いた十七条の「異見書」や、佐久間信盛親子を糾弾する十九条の「覚書」は、そのような信長の「潔癖さ」の表れとも考えられます。また、果物のかすを捨てずにそのままにした少女や、町人の女をからかっていた兵士をいきなり切り捨てたとされる行動も、同じものではないでしょうか。
 その「秩序」の一つとして、小和田は、信長の「きれい好き」について言及しています。たとえば、信長は整備した街道の各所に箒を置き、近郊の村人に清掃させるよう命じています(ルイス・フロイス)



6)意外に気が小さいところがある

 戦国の英雄とされている信長には、不似合いと思われるかもしれませんが、彼の彼の尊大さの裏側には、彼の「気の小ささ」があると考えています。
 すでに述べた慎重さも、その表れの一つだと考えます。慎重さも度を越せば、臆病にもなりえます。
 それ以外のこととして、信長自らが人々から「みっともない」とか、「無様」と見られることをひどく心配していた節がある思います。先に述べた足利義政への「異見書」や佐久間信盛らへの「覚書」は、いずれも、彼らの落ち度を「世間」が許さないだろうといった形で書かれていますが、おそらく、信長自身に「面目」を失うような、恥ずかしい姿を世間に曝すことへの強い「恐れ」があったのではないでしょうか。


7)気の短さ

 たとえば、桶狭間の戦いでは、いまが出陣の好機と思い立つと、主従六騎のみで城を飛び出し、後を追いかけてきた部下と熱田で合流をします。また、朝倉攻めの時、朝倉軍が退却を始めたので追撃のチャンスだと信長は見たのですが、配下の武将らが一向に動こうとしません。彼はそれに痺れを切らし、自らの兵のみで朝倉軍を追撃します。信長にとって、何もせず、ただじっと待つようなことは苦痛以外の何ものでもなかったのでしょう。このことは、信長の「気の短さ」に由来するものと考えられます。ルイス・フロイスも、信長のことを、" 非常に性急であり" と述べています。



8)精力的であること

 信長には、ものごとがうまく進まないような時、へこんだりすることはなく、逆に、極めてエネルギッシュに行動するような傾向があると考えます。
 たとえば、畿内の平定を試みていた時、浅井・朝倉、石山本願寺、信玄などに、いわゆる「信長包囲網」を結成されるといったことがありました。彼の、最も危機的な時期であったと言われています。この時期、信長不利と見た陣営がつぎつぎと挙兵をして信長を脅かしますが、信長は機敏に軍を動かし、それらを各個撃破していきます。同時に、信長は、浅井・朝倉や延暦寺との和議を朝廷に依頼したり、敵方の武将を寝返りさせたりなどの、調停・調略工作にも盛んに取り組みます。これらの「精力的」な信長の動きと、突然の信玄の死が転機となり、この包囲網は、次第に、信長により打ち破られていくことになります。



9)人任せにできないこと

 これは、6)の「気の小ささ」に由来するものですが、やり方を間違うとリスクが大きいと信長が考えるような事柄については、人任せにはできず、すべて自分で仕切ろうとする傾向があると考えられます。ただ、戦線が拡大し、直接、自分では手が出せないような場合には、書状で細かく指示をしています。たとえば、鳥取城を攻めている秀吉に対して、細かく指示を出している信長の書状が、いまも細川家に残っています。


10)意外に、外界のことへの見落としがある

 2)で述べたように、信長の主要な注意や関心は、自らの内部の世界に向けられています。そうだと、ややもすれば、外部のできごとやものごとについての注意がおろそかとなりがちとなります。それでは、危険から身を守ることはできないので、信長は、基本的には、外界に対して警戒的な態度を取ります。
 ただ、いつも外界に注意を払い続けるのは、かなり疲れることです。なので、彼が「安全」・「安心」だと思うような人たち、たとえば、身内や部下や味方に対しては警戒心を緩めてしまいがちとなります。もともと、人の微妙な気持ちなどを察知することが不得手なのに加え、外界への警戒心が緩んでしまえば、結果、とても無防備な状態が彼に生まれる可能性があると考えられます。
 このことが、信長が浅井長政、松永久秀、荒木村重などの武将の裏切りに会い、ついには、本能寺で死を迎えることになった理由の一つだと考えています。
 この点で、真逆なのは、羽柴秀吉です。彼は、もともと関心が外界に向いている上、まわりの変化や人の気持ちに対しては非常に敏感で、それを察知して機敏に動くことができた人だと考えます。それが不得手な信長の欠点を、秀吉が補っていたという点では、ふたりは、いい「コンビ」だったのではないでしょうか。

 

プーチンとの性格的な類似点    

 以上のような信長の性格を見ていくと、プーチンとの類似性があることに気が付かれるかもしれません。信長を「戦国の英雄」と考えている人からは、ブーイングを受けるかもしれませんが、二人の性格を見比べると、明らかに、多くの点で、二人の性格に類似点があると考えます。詳しくは、「性格」から見たプーチンの記事を見てください。
 また、信長は「戦国時代」、プーチンは「ソ連崩壊」といった混とんとした状況の中から頭角を現し、国の秩序を回復したという結果においても、似ていると考えられます。



性格の二面性  

 信長の評価に対し、一方で、「英雄」といったプラスの評価がある半面、「魔王」といったマイナスの評価もあります。ですが、ものごとには、すべて、プラスとマイナスの両面があるように、性格にも両面があると考えます。つまり、信長の性格のある面は、「天下統一」といった英雄的な行為と関連もするし、同じ性格の違う面は、非道で残虐な行為という形で表れていると考えています。また、彼のある性格の一面は長所であり、反面は弱点にもなりえのです。

◇戦国武将シリーズの続きの投稿記事は、「性格」から見た秀吉-天下統一の達成と晩年の驕り-です。ぜひ、ご覧に!

【参考文献】

小和田哲男、「集中講義 織田信長」、新潮文庫、2003.




 


 





2022年8月10日水曜日

「性格」から見た明智光秀-なぜ本能寺の変は起こったのか-

  はじめに  

 今回からは、戦国武将のたちの性格の分析を試みてみます。

 第一回の人物は、二年前の大河ドラマ、「麒麟‥‥」の主役であった明智光秀です。
 彼は、京での信長の宿であった本能寺を急襲し、主君である信長を討つといった「謀反」を企てた人物です。その動機については、未だ、「謎」が多いとされていますが、彼の性格についての分析を通して、その「にも挑んでみたいと思います。




(岸和田市 本徳寺所蔵)
(岸和田市 本徳寺所蔵)


  性格傾向の項目  


1)自らの役割や立場に対しては「従順」
2)温和な人柄
3)怖がり
4)自律神経系の異常による発作
5)思いがけない、大胆な行動をとる

 では、一つずつ説明していきます。


  各項目の解説   


1)自らの役割や立場に対しては「従順」
 光秀は、自らに与えられた「役割」や、自らが置かれた「立場」というものがあると、それには、極めて「従順」であり、まわりの期待に、一生懸命、応えようとするような人だったと考えています。事実、信長の配下になってからは、信長の指示には極めて「従順」で、ほとんど休むことなく、働き続けています。たとえば、丹波一国の攻略を任されながら、その上、信長の命により、あちこちの戦線に駆り出され、戦しています。また、彼は「武人」でありながら、人材不足の織田政権の中にあっては、さまざまな制度改革や外交にも取り組むなど、「官僚」としての役割をも果たしていたとされています。その彼の働きぶりを信長も高く評価していたようです。
 また、信長が戦場にある時に一人酒宴を楽しむようなことはできない、と語ったといったエピソードがありますが、その光秀からは、いかなる時も、「信長に付き従う」といった、自らの立場を忘れてはいない姿がうかがわれます。
 さらに、ある資料では、光秀を秀吉と比較して、秀吉の「豪放磊落」に対して、光秀を「謹厳実直」の人と形容しています。


2)温和な人柄
 彼の残した書状からうかがい知ることのできる光秀は、支配下の国衆や部下に対して、決して「強圧的」、「高圧的」な態度はとらず、書状の中身は「厚礼」であり、相手を気遣ったり、相手に寄り添ったりといった、「優しさ」を感じさせるような人物であった、とされています。
 ちなみに、この光秀と対照的なのは信長であり、「(彼は)非常に性急であり」、「(時に)激昂する」と、宣教師のルイス・フロイスは述べています。


3)怖がり
 信長への謀反の企てについて、光秀の側近の人たちに打ち明けたのは、出陣の前であったとされています。また、部隊に対しては、本能寺を攻める直前に信長討伐を命じています。このように、企てが外に漏れないようにとの、かなり注意深い態度がうかがえます。これは彼の「慎重」な性格からというよりは、信長のことをひどく「恐れていた」ことからくるものではないでしょうか。万一、打ち漏らした時の信長が、彼は「心底怖かった」のではと考えています。
 このため、彼の謀反の企てを、毛利や長曾我部などの反信長陣営は前もって知らされることはなかったし、光秀の下で働いていた武将(与力)も前もって光秀に味方するよう、打診は受けていなかったことになります。それが、謀反後、秀吉の「大返し」を許し、また、光秀に味方をする武将を結集できないまま、山崎の戦いでは、兵の数において勝った秀吉軍に敗れるという結果をもたらしたのではないでしょうか。


4)自律神経系の異常による発作
 彼の性格から派生するものとして、自律神経系の異常による発作という「症状」を取り上げてみました。
 天正4年(1576)5月、石山本願寺攻めの陣中で、光秀は病に倒れます。どんな病だったのか、詳しい記録はないのですが、7月に友人の吉田兼見が坂本で光秀に会った時には、病は「平癒」したらしく、10月には、京都で職務に復帰しています。
 はたして、この病は何であったのか?
 単なる「過労」であれば、しばらく休養をとれば回復するはずなので、わざわざ陣を離れてまで、病の治療や療養をする必要はないと考えられます。一方、脳や内臓などの重い病気であれば、二か月位で平癒するはずもないでしょう。だから、倒れた時は、重篤に見えても、自律神経系の異常なら、回復に左程の時間を要することはないと考えられます。
 1)で述べたように、彼は与えられた役割を従順に果たそうとする傾向があります。その光秀に信長は矢継ぎ早に命令を出し、光秀はその期待に応えようとするといったサイクルが生まれても不思議はないと考えられます。結果、光秀は激務により過労状態となっただけでなく、さまざまな納得いかないこともやらされたり、まわりへ気遣いしたりしたことでの、精神的なストレスも加わり、自律神経系の異常による発作を起こしたのではないのかと考えています。彼には、秀吉のように不満を「行動」で現わすといったようなことができず、その時点では、「病」といった形でストレスを表現したのではないかと思われます。


5)思いがけない、大胆な行動をとる
 すでに述べたように、光秀は「従順で、温和な人」といった傾向をもつ人物です。でも、彼の性格の中には、ある時点で、突如、まわりがびっくりするような、「大胆な行動」をとる可能性があると考えています。
 すでに述べたように、光秀は主君である信長の命に従順に従い、信長の評価を得るために、懸命な努力を続けてきました。だが、その結果、病に倒れてしまう訳です。その後も、信長の命により光秀は激務を強いられ、また、味方の離反などの難題に直面させられます。それが肉体的にも、精神的にも彼を疲弊させ、それなのに、その彼の働きが必ずしも評価されていないことへの光秀の不満や先行きの不安が募る中で、少しずつ、彼に信長に対する「叛意」が生まれ、それが増大していったとしても不思議ではないと考えられます。それまで「従順」であったことの反動としての、信長に対する激しい怒りなのでしょう。でも、光秀にとっては信長は「怖ろしい存在」であり、不用意に行動に移す訳にはいかないので、「密かに」反逆の機会を狙っていた可能性があると考えます。

 もちろん、それだけでなく、彼には信長にとって代わり、天下を取るという「野心」もあったはずです。彼には、これまでの自らの実績から、軍事的でも、政治的でも、天下を仕切るだけの実力があるといった「自負」があったとしても不思議ではないと考えられます。
 以上のような彼の内面や「時に、大胆」といった性格は、「従順で、温和な人」といった彼の外見からはうかがい知れないので、光秀の謀反は、まわりの人たちの眼には「青天の霹靂」と映ったのかもしれません。

◇戦国武将のシリーズの続きの投稿記事は、「性格」から見た織田信長-信長の成功と失敗の理由(わけ)-です。


【参考資料】

福島克彦「明智光秀-織田政権の司令塔」、中央公論新社、2020.
高柳光寿「人物叢書 明智光秀」、吉川光文堂、1980.
ルイス・フロイス「回想の織田信長」、中央公論社、1977.
志村宗生性格と精神疾患」、金剛出版、2015.

志村宗生「ことばのクスリ-薬に代わるこころのケア-」、東京図書出版、2023



 
 




 
 
 

          

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